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vol.10 『夜と霧』

わたしたちは、おそらくこれまでどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。(p.143)


これからの人生をどんなふうに生きていきたいか、考えている中で「人間らしく」生きたいと漠然と思うようになった。



では「人間らしい」とはなにか。



私は「ことばを通して他の人間と意思疎通を図ること」ができるのは、人間に与えられた素晴らしい能力だと思っている。


それ以外にどんなものが「人間らしさ」と言えるのか、今回は、ヴィクトール・E・フランクル氏の『夜と霧』を通して考察する。


アウシュビッツ収容所を経験した著者が、自身の経験を通して「人間」を物語っている。


私はこの本を、「アウシュビッツ収容所の中で『生き残った人』とはどんな人だったのか」を軸に読んだ。



それがまさに、「本来の人間らしさ」であった。




印象的だったシーンを挙げて、私の感じた「人間らしさ」を述べる。


①欲求を持つ

煙草をたしなむとは、褒状、つまり生命を危険にさらしてよぶんに働いた功績によって手に入れた煙草を、食料と交換することを断念し、生き延びることを断念して捨て鉢になり、人生最後の日々を思いのままに「楽しむ」ということなのだった。仲間が煙草を吸いはじめると、わたしたちは、行き詰まったな、と察した。事実、そういう人は生きつづけられなかった。(p.7)


人間は本来、真の欲求に基づいて判断を下すのである。


欲求は雪だるま式に増えていく。1つが満たされると、次の欲が出てくる。そうやってだんだん真の欲求を忘れてしまう。

人間が持つ真の欲求は「食欲」に代表される「生理的欲求」である。

お腹が空くというのは人間の最大の危機である。


それを諦めて目の前の快楽である「煙草」に手を出した人間は生き続けることができなかった。


雪だるま式に欲求が増えていくということは、芯になる小さい雪のかたまりが必要である。



芯のない雪だるまは崩れるのだ。


アウシュビッツ収容所にいた人たちよりも何倍も豊かな生活を送る私たち。



私たちは真の欲求を見失ってはいないだろうか。



②環境に適応する

人間はなにごとにも慣れる存在だ、と定義したドストエフスキーがいかに正しかったを思わずにはいられない。人間はなにごとにも慣れることができるということが、それはほんとうか、ほんとうならそれはどこまで可能か、と訊かれたら、わたしは、ほんとうだ、どこまでも可能だ、と答えるだろう。だが、どのように、とは問わないでほしい……。(p.27)


人間の環境適応能力はすごい。


小学校で週に1回サポーター活動をしていた時のこと。

小学校1年生が、先週習ったことを次の週にはスムーズにできるようになっている姿を目の当たりにした。


しかしそれがある種の洗脳に見えたのもまた印象的だった。


学校のルールに対して何の疑問も持たず、ただ従う。


生徒に「どうして?」と訊かれても「そういうルールだから」という言葉で丸め込むしかない現実。


「慣れる」ことと「適応する」ことの違いは、そこに「意志」があるかどうか


意志がなくても人は慣れることができる。適応する際は、自ら選択する必要がある。


私たちは今の社会に「慣れて」いるのか、「適応して」いるのか。


③意思が弱い

「強制収容所ではたいていの人が、今に見ていろ、わたしの真価を発揮できるときがくる、と信じていた」けれども現実には、人間の真価は収容所生活でこそ発揮されたのだ。おびただしい被収容者のように無気力にその日その日をやり過ごしたか、あるいは、ごく少数の人びとのように内面的な勝利をかちえたか、ということに。(pp.122-123)


元マッキンゼー日本支社長の大前研一氏も、人間の意思の弱さを以下のように述べている。

人間が変わる方法は三つしかない。
一つは時間配分を変える、二番目は住む場所を変える、三番目は付き合う人を変える。この三つの要素でしか人間は変らない。もっとも無意味なのは「決意を新たにする」ことだ


人間が「変わった」と言えるのは「行動した」時だけだ、とガネーシャ(『夢をかなえるゾウ』より)も言う。


人間は想像力に長けている。それを発揮するには「行動」しかないのだ。


アウシュビッツ収容所のような行動を制限された環境の中でもなお、行動することが人間には求められていると感じた。


『ショーシャンクの空に』や『約束のネバーランド』などの脱獄系映画は、これを体現している。


④選択をする

人間はひとりひとり、このような状況にあってもなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについて、何らかの決断を下せるのだ。典型的な「被収容者」になるか、あるいは収容所にいてもなお人間として踏みとどまり、おのれの尊厳を守る人間になるかは、自分自身が決めることなのだ。(pp.111-112)

『7つの習慣』の著者であるコーヴィー氏の、「刺激と反応の間には選択の自由がある」という言葉が、このシーンを集約している。



人間は主体的である。


主体的であるということは、「選択する」ということだ。


しかし、この「選択できる」ということを人間は忘れてしまうのである。

強制収容所の人間は、みずから抵抗して自尊心をふるいたたせないかぎり、自分はまだ主体性をもった存在なのだということを忘れてしまう。(p.82)



私たちは、主体的に生きているだろうか。




この「主体性」については、別のブログで詳しく書いているのでぜひ参照ください。



⑤決断をする

わたしたちは、おそらくこれまでどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ。(p.143)


選択と分けたのは、決断とは自らの判断基準をもとに行動することだからだ。


生き残ることを決断した人が生き残っている。


これを決断することが、どれだけすごいことなのか。


『夜と霧』はその事実を物語るのである。




私は、この5つの「人間らしさ」の根元は「人間としての軸」であると考える。


他の言葉で言えば「自分はどう生きていきたいか」という「価値観」があるかどうか。

これを見失っているならば、今すぐ意識下に取り戻す必要がある。

人間として生きることを、人間が忘れてはいけない。


私は今人間らしく生きているのだろうか。


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