見出し画像

時間切れ!倫理 116 一遍

 法然、親鸞と同じく浄土宗の系列で一遍(1234~89)というお坊さんがいます。この人の宗派が時宗です。一遍は仲間たちと各地を旅して回ります。定住せず財産を持たず、常に旅をしていることから捨聖(すてひじり)とも遊行上人(ゆぎょうしょうにん)とも呼ばれます。
 彼は教えを説くときには、信者たちと念仏を唱えながら踊った。「一遍上人聖絵」という絵巻物が残っていて、旅をする姿、布教の時に踊っている姿が残されています。踊りながら、みんなでトランス状態に入っているのかもしれません。踊りながら布教するので踊り念仏と呼ばれた。一遍についてはこれだけなのですが、興味深いエピソードを一つだけ紹介します。

 あるとき、一遍上人が、現在の神戸にあった宝満寺をおとずれた。ここは禅宗のお寺です。そこで法灯国師という禅僧から、「念起即覚」(念おこらば、すなわち目覚めよ)という題を与えられました。
 これに対して一遍が、
「となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏の 声ばかりして」
と和歌をつくると、法灯国師は「まだまだだな」とダメ出しをした。
 つぎに一遍が、
「となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏 なむあみだぶつ」
と歌うと、法灯国師は「それでよし」と言った。

 前の歌には念仏の声が聞こえているので「自分」がいるけれど、後の歌には、念仏だけがあって「自分」がない。いわゆる「無我の境地」、ウパニシャッド哲学的に言えば、アートマンが念仏の中に溶け込んで、なくなっている状態でしょう。
 この二つの歌の中に、すべての浄土宗系の念仏につうじる核心があると思います。念仏を唱えることの究極の目的が垣間見える。
 親鸞は、ただただ阿弥陀仏に感謝をして念仏を唱えるのだと教えるのですが、心からそれを信じて無心に念仏を唱えた浄土真宗の在家信者のことを妙好人といいます。柳宗悦『南無阿弥陀仏』(岩波文庫)には、そういう妙好人たちの話が載っていて、非常に面白い。江戸末期に生まれて昭和初期まで生きた浅原才一(あさはらさいち)というひとが、特に有名ですが、ある種の聖人です。とことん愚者であることを自覚した結果、聖人にまで突き抜けていった人々が描かれています。
 こういう本を読むと、浄土宗系の教えは原初の仏教から遠くへだたっているように見えても、ちゃんと仏教の枠組みのなかにあって、一つの極点に到達していると感じます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?