金岡新
「137 福沢諭吉」から「160 坂口安吾・小林秀雄」までです。 第1回からの全体像は、以下のサイトからご覧いただけます。 https://timeway.vivian.jp/rinri/index.html
江戸時代の思想をまとめています。
鎌倉仏教について、113~119を束ねました。
「時間切れ!倫理」102~112、日本の思想 古代~平安時代
私は高校で社会科(正確には地歴科と公民科といいます)の教師をしています。 社会科には、日本史、世界史、地理、現代社会、政治経済、倫理があります。2年先にはカリキュラム改訂で変更がありますが、同様の分野があると考えてよいでしょう。 さて、我々社会科教員は、みなそれぞれ専門科目があります。私は大学で東洋史を専攻したので、専門は世界史です。とはいえ、教師になればどの科目も教えなければなりません。私でいえば、世界史専門だからといって、世界史だけを教えているわけではありません。 一人
坂口安吾は戦前から活躍していた小説家ですが、敗戦直後『堕落論』という評論で大ブレイクしました。今を生きる人々の営みを、徹底的に肯定します。「堕落せよ!」と言う。 生きるためには、こんな事やってはだめだ、なんていうことはない。極端なことを言えば、人がどんどん増えて駐車場が足りなくなったならば、法隆寺を潰してそこに駐車場を作ったらいいんだと言う。千何百年か前の文化遺産よりも、現在生きている人間の方が大事だという。 敗戦直後の、戦争から解放された人々の生きるエネルギーに応えた
丸山真男は政治学者、東大の教授です。彼は第二次世界対戦が終わった後、なぜ日本はこのような無謀な戦争に突っ込んでいったのか、なぜ軍国主義を止めることができなかったのか、ということを分析しました。1960年代70年代には広くみんなに読まれました。私も大学に入って彼の本を何冊か買って読みました。丸山真男を読むのは、まともな大学生の常識、という雰囲気が当時はまだあった。『超国家主義の論理と心理』とか、分厚くて高い論文集も買って読んだな。 「無責任の体系」というのがキーワードです。
石橋湛山は、ジャーナリストから政治家に転身した人物です。第二次世界大戦前、軍国主義的な政策に傾いていった日本が、中国東北地方、当時でいう満州地方に侵略を開始していきます。日本中が軍国主義に乗っかって、植民地を広げることに賛成していたなかで、石橋湛山は、植民地を取りに行き領土を広げようとすれば、日本は滅びると訴え続けていました。「小日本主義」と言います。結果的に見れば、第二次世界対戦の敗北を予言していたような、鋭い視点を持っていたわけです。 しかし彼の訴えは、全く世間に受け
柳宗悦 柳宗悦(やなぎむねよし)は美術評論家。ただし、彼が評価したのは著名な芸術家の作品ではない。江戸時代以降だけでも、尾形光琳、狩野永徳、葛飾北斎、いくらでも芸術家がいます。しかし、柳宗悦はそういう名の知れた芸術家の作品ではなく、名もない職人さん達が作るお茶碗など、日常生活で使う様々な道具に美を見出しました。これを民芸運動と言います。一般民衆の暮らし、伝統文化に目を向けたのは、柳田国男と相通じるものがあります。 私は、今朝もご飯を食べてきました。ご飯のお茶碗には、模様が
柳田国男の弟子で一番有名なのが折口信夫です。信夫と書いて「しのぶ」と読みます。釈超空(しゃくちょうくう)という名前で、歌人としても活躍しました。 この人は戦後の1953年まで生きています。高度経済成長前の日本には、まだまだ昔の風景が残っていて、昔ながらの村落共同体的なものも残っていた。折口は日本全土を旅して、伝統的な祭りを観察します。 また万葉集や神道の研究などもしている。柳田国男とは違って国学の系統も引いている人です。古事記や万葉集などは全部暗記していたのではないかな
次は民俗学です。日本の民衆の伝統や文化を研究する学問。この人たちの名前は聞いたことがあるかもしれません。僕らくらいの年齢だと、社会常識的に何度も聞いたことがあるし、読んだ人も割と多いのではないか、そういう人たち。 最初は柳田國男です。日本の民衆の風俗や生活を研究した、民俗学を確立しました。若いころは、島崎藤村や『武蔵野』で有名な国木田独歩とも交流があって、文学に志があったようですが、やがてそこから離れ、東京帝大卒業後は、農商務省(現在の農林水産省)の官僚となります。仕事上
和辻哲郎は、日本文化の特徴のところで既に紹介しました。哲学者、日本文化の研究者として出てきます。主著『人間の学としての倫理学』『風土』。日本文化を考えていくなかで、人間関係の考察をした。日本文化論のさきがけのような人といえばよいでしょうか。それで教科書に出てくるのだと思います。 「間柄的存在」としての人間、というのが教科書に出てくる和辻の用語です。これはヨーロッパの哲学・思想に対するちょっとした批判なのです。 ヨーロッパの思想は、理性とは何か、主観とは何か、ソクラテスや
明治の半ばも過ぎれば、ヨーロッパの文化がどんどんと入ってきて、普通に大学でさまざまなことを教える。哲学はヨーロッパで生まれました。そのヨーロッパから入ってきた西洋哲学を、東洋の思想と融合させて、独自の哲学を生み出そうとしたのが西田幾多郎(きたろう)です。 京都大学で教えていた先生で、『善の研究』を著しました。西田幾多郎の横に鈴木大拙(だいせつ)と書いてありますが、そこに線を引いておいてください。鈴木大拙は教科書に出るか出ないかとい境目の人ですが、有名な仏教・禅の研究者す。
武者小路実篤、志賀直哉、有島武郎らは白樺派という文学グループです。これは華族や財産家の子弟たちの集まり。武者小路(むしゃのこうじ)というのは本名です。本物の貴族。学習院グループです。学習院は、かつては華族などしか入れなかった学校で、その学生グループです。ボンボンです。 生活の苦労のない青年たちが、人生の理想を求めて小説を書いた。ロシアの文豪トルストイの影響を受けて理想主義的、人道主義的な小説を書きました。とくに武者小路実篤はその代表格で、文学活動以外でも、九州に理想社会を
森鴎外は大秀才。幼い頃から受験勉強的な勉強はものすごくできる。東大に入って医者になります。医者といっても普通の医者ではない。陸軍の軍医です。軍医としてどんどん出世して、最終的には陸軍軍医総監という、軍医として最高の地位にまで上り詰めました。 官僚としては超有能で優秀です。仕事をどんどんこなすことができる。出来すぎるものだから、余技として海外文学を翻訳したり、海外の文学理論を日本に紹介したりする。やがて小説を書くようにもなる。彼の自宅の二階は観潮楼といって、文人たちのサロン
夏目漱石は、帝国大学(東大)で英文学を学び、大学教員になりイギリスに留学します。そのイギリスでノイローゼになる。下宿を出て街を歩くと、ロンドンの人々が自分のことを見て笑っているような気がする。大学に行かず、自分の部屋にこもります。引きこもりです。国費留学生で偉い人ですから、留学生仲間の間で噂になる。夏目おかしくなってるぞ、と。色々な人が心配して、様子を見に来てくれるのですが、なかなか状態は良くならなかった。 このロンドンでおかしくなっている時に、正岡子規と手紙を交わしてい
文学 ここでは北村透谷、夏目漱石、森鴎外を紹介します。この三人はほぼ同世代、1860年代に生まれていますが、活躍は北村透谷がうんと早く、しかも26歳くらいで死んでいる。北村透谷が亡くなってずっと後、夏目漱石と森鴎外は、中年以降に活躍してその名を高めていきました。したがって活躍時期は2、30年ずれていますが生まれたのはほぼ同年代。 北村透谷は、自由民権運動に身を投じた人です。薩長藩閥政府に対抗して、権利や自由を獲得し、議会制度を定着させようとしたのですが、1880年代後半
田中正造はその後も、講演会で多くの人に問題を訴えたりしながら鉱毒問題の解決に向けて活動を続けました。 渡良瀬川に鉱毒が流され続ける問題に関して政府はどのようにしたか。政府は渡良瀬川の下流に遊水地という大きな池を作ります。有害物質を含んだ水をこの池に一旦溜めて、有害物質が沈んだ後の上澄みを流すという対策を取りました。大きな池、渡良瀬川遊水池というものを作るわけですが、そのためには広い土地が必要です。遊水池の候補地となった村の人々は強制移住をさせられました。強制移住させられた
田中正造と足尾銅山鉱毒事件は、日本史でも必ず出てくる大きな事件です。田中正造は非常に大きな影響を同時代の人々に与えた人物です。 栃木県に渡良瀬川という川が流れていて、その上流に足尾銅山があった。江戸時代からあった銅山ですが、明治になってから近代的な方法で採掘量が増えた。銅鉱石を採掘するだけではなく、その場で精錬もしました。その製錬工場から銅を抽出した後の重金属を含む有害物質が渡良瀬川にそのまま流されていました。 やがて、この川の下流で田んぼの稲が育たないということで大問
次に、様々な社会運動家を見ていきます。 女性解放運動としては平塚らいてう。「らいちょう」と読みます。漢字で書くと雷鳥です。『青鞜』という女性解放運動の雑誌を発行しました。今から150年前、明治の時代に女性として社会活動をするのですから、ものすごく行動力のある女性だったのだと思います。 平塚らいてうのお母さんは、娘のために結婚資金を貯めていました。らいてうは女性解放運動を始めると、母親が自分のために貯めていた結婚資金をもとにして、『青鞜』を発行しました。この雑誌の巻頭の言