【「リビング戦士は安らぎを迎えられなかった」 〜essay〜】

桜えびのような色の明太子ソースの画面を横目にこれを書いている。
2023年2月12日日曜日。





私は小学生の頃、富山県の立山に登ったことがある。登ったルートがどのようであったかは覚えていないが、おやきとかいう、芋餅なのか中華饅頭なのかその間の子といったものを食べたことだけは覚えている。

寒くて若干雨が降っていたようなことだけをはっきり覚えている。これは軽石だ、と言われて拾った石は、見かけよりも軽くて、手にチョークのような白いベタベタした白いものが付いた。
雨が降っていたからベタベタしたのかもしれない。私はその、手についた軽石の粉をズボンに手を擦り付けるようにして拭いた。とてもそんなことをしそうにない顔を誰に振りまくでもなく振りまいてみた。

そのとき拾った軽石は、私によく似ていた。その石を興味なさげに握りながら、この石の内側にはひょっとすると水晶が密集して群生しているのではないかと、ありもしない、あり得なくもない空想をした。

その空想は頭の中で成功を収めた。軽石の中に群生した水晶は、ある日突然メアリー・アニングがイクチオサウルスの全身を見つけたときのように人に知られ、日の目を見るのだ。脳内にうねる驕飾に悦に入った立山登山当時。

なぜ今、小学生の頃に立山に登ったことなぞを思い出したのかと言えば他でもない。
YouTubeの画面に躍り出た桜えび色の明太子ソースは、並々と料理に注がれ、私の目に止まったからである。目に止まったというより、眼球の表面を滑走したのだ。
ソースと長葱を飯につぐ彼には、ぎりぎりに暮らしながらも、ようやく手繰り寄せてきた人との縁で日の目に当たり始めた、どこか希望のある気色がある。

それを見て、私は立山で食べた桜えびチップスを思い出さないでいられなかったのである。標高の高い山でポテトチップスというのは限界まで袋が膨らむものらしく、それが何とも言えず素敵で、早くぱあんと叩き開きたい心臓がはちきれそうだった。

桜えびチップスは、当時の私によく似ていた。色を持っていた。他にはないフレーバー。それでいて、何者になりたいかはまだ先の見えない話だが、何者にもなれるという、こぼれ落ちそうな期待を長い時間の先に湛えていた。





ネットカフェで私は今、バニラアイス柄の天井を眺めながら、YouTubeを流し聞きしている。いや、流し聞きとはいうものの、ある程度聞いているのだ。いや、聞いていたものを聞いているのだ。

バニラアイスの柄とはなんぞやかな、と思う人はまともで普遍的な感性をしていて、バニラアイス柄のと形容した自分にやや得意げになりながら奥歯の冷笑を禁じ得ない私は、これから解説をする。

多目的ホールや学習塾の天井をじっくり見たことがある人はどのくらいいるのだろうか。
首を揺らしながら馬渕教室の授業中に寝る癖がついていた当時の私は、首を揺らした反動で天井を見たときにしばしば天井を見て馬鹿者である自分に絶望したものだが、白地に黒い引っかき傷がたくさん付いて、バニラアイスの皮膚のようになったのを見た、と書けば伝わるだろうか。

とにかく、今私が見ている天井はバニラアイス柄で、縦横比は1対1に違いない! となぜかどうでも良い突っ込みを入れたくなる四角が連なっていて、分かりやすく言えば縦線と横線が入っている。
バニラアイス柄の、バニラアイス色のチョコレートに見える。
そう言えばあと2日でバレンタインか、と考えてしまう私も、普遍的な感性の持ち主なのである。

天井を見るには反り返った頭と脊椎が必要で、今の私は地面に対して平行な緩い曲線を描いて横たわっている。
リクライニングシートは以前、友人とドライブに行った折に泊まったネットカフェで味わったな、を思いながら今もネットカフェの一箱に籠められている2時53分。







戦争から何時間が経ったろうか。家を飛び出した直後に鍵を掛けられ、玄関のチェーンもこれみよがしに掛けられたのは2月11日の土曜日、22時27分だった。
夜道こそ真に分かってくれている人間だと思いながら、私の脚は行くあてもなく阪急北千里駅に向かう。
カマキリの卵よろしく編み目の細かい埃が詰まる肺に、見ないふりをする。見逃せずに喘鳴を漏らす。息がとても苦しい。分かってあげられる人は私だけ。

カエデの木が門番をする坂の左側を下ると、中高生の頃の朝を思い出す。トーストする時間を作ってもらえなかった食事パンが私に咥えられ、風圧に押され粉を飛ばす。使い古して足の指の付け根の辺りに折れた線がまざまざと刻まれたローファーは、外反母趾の居場所を攻めつつ坂を下る。

「お願いします」と乗車証を見せたが最後、ごめんなさいからの1日が始まり、26分間バスに揺られ学校に着く。
悪いのは私じゃなかったのに、と家での出来事を思い返し、どうして私ばかりがごめんなさいを、という言葉をしまう。

阪急北千里駅に着くと、私は最終電車の時間を調べながら無計画に動いた。高校生の頃に通った個別指導の塾の前に立って眺めてみたが、帰りたくない、帰りたくないと思ってそこにいた記憶しか蘇らず。
象さんの公園の前で、象さんの口の辺りに公園に植わっている花を摘んで食べさせ喜んだ、幼稚園の頃の私を怪訝な目で見る用務員さんの顔を思い出した。

阪急淡路駅まで電車に乗って、気が向けば阪急京都河原町駅まで行ってやっても良いか。こういうところが嫌われるのだ、となぜだか飛躍した考えが頭をよぎったが、私の中の理性の頭が論理を欠いた早合点を却下し、私は前向きに無計画に動いた。

父と喧嘩をした日は、自分の身ぐるみ全てまでもフリーマーケットアプリに出してみたい念に駆られる。そのくらい社会的な立場の弱い人間である自分の、懐の貧弱さを感じるのである。
交通費をまずは削ってやろうと意気込む私に、電光掲示板の470円は目の前の馬鹿者にため息をつきながら、冷ややかに立ちはだかる。
削れるのはこのお金ではないのね、と浪費癖を振り返りつつ開くは財布の顎。

緑のベロア生地の阪急電車にはあと何回乗れるのだろうか。ソファーの連の両端には、肩を寄せて良い具合に寝られそうな壁が作られているため人気の地であるに違いない。
私の乗った車両は私しかいない。
貸し切りと言えばお得で、独りきりと言えば損で、プライベートが守られていると言えばラッキーで、孤独と言えば悲哀の象徴で。自然と嬉しくて涙が出てきた。
ただただ悲しかった。






さっきまでいた家の中では、中高生の頃には存在した悲劇的な熱量は私たちの中になく、冷めた死体のような侮辱を一方的なカードゲームのようにぶつけた。事の発端は、父が筋肉質なことである。

父が筋肉質なことがなぜ対立を催すのか、このページを離れたい読者もいるだろう(この時点で三島になったかの如く恍惚としている愚の骨頂をシニカルに見つめる私がいる)。

一家が共用で過ごす部屋の温度設定を自分だけがいじって良いとするのは誰が決めたのだろうか、という疑念を誤魔化しつつ、今日父はリモコンの設定をいじったらしい。

真冬に自室の温度設定を誤って冷房にしていても平気な父の体感温度。筋肉質だからである。
その父の、間違いを知らないといった概念は、申し訳程度に添えられたゴボウのように頼りがいを知らない私の手足には堪え、母も寒気で衰弱し、私と母、父との対立は間もなく開戦。実に、22時20分。

温度設定を変える権利は父にしかないと父が決めているリビング、
変えたのが悪いのではなく、殻だけ謝る父に青い正義で断罪せずにいられない私。

墨汁のシミが染み込んだ、冷たいリビング。
いたたまれないリビングを心配して現れた妹に、「俺何か間違ったこと言ってる?なあ、こいつが頭可笑しいんだよなあ」と言わんばかりの表情で困り顔をしてみせる55歳。
喧嘩モードに入ったアピールをするために、私を威嚇しようとして眼鏡を勇ましく取ってはつけ、取ってはつけるムーブを繰り返す、浅ましい医者の父。

後はナンダロウか。

人に我慢をさせる生き物であるのを恥じない生き様、
謝罪を知らないこと、感謝、謝罪、謝罪を知らない、謝罪を知らないこと
(「謝」という漢字が付くものが苦手分野なのか? といった皮肉を思いつき、ひとりでに笑いが込み上げる辛気臭い私を、まともな私が見つめる)。

世の中を牛耳れるとでも思っているのか、誰も軌道を真っ直ぐにしてくれるお方はいいひんかったのやろうかと何とも言えない気持ちは止まらんが、不必要に権威や金をちらつかせること。それを滑稽だと蔑んでいる人間が最も近くにいることに気が付かないこと。

持っている財にしか価値がない人間だと長年私に思わしめていること、
家族という係を繋ぎ止めるものは形に残るものしかないこと、
何となくそれを父は分かっていそうなこと、
逆効果な関わりをやめられないこと、目下の者に教わることはないと馬鹿にしていること。

「こと」で繋げてみると、物凄く凡庸な歌詞でも書いてみたかのようで拙さに壁を深爪でかきむしりたいことだ
(「こと」の連鎖に見事に嵌まっている)。
つまり今の私は愛する人間がいないのを父のせいだ。
むちゃくちゃだが私から絞り出て抽出されたものはこれ、このこれ。
愛する人間のいない天井を見上げている時間が、1番苦しい。





父と立山に行った若き日の私は何を思っていたろうか。「若き」というのは普通、10代から20代を指していうことなのだろうが、小学生の頃くらいが若い、だろうな。
私の生誕においてはその頃まで。
桜えびチップスを、父とどう分けたのかも思い出せないが、今の私は何度立山に登っても萎んだ袋しか知ることはできないのだろう。

メイク落としシートなる苦い布で顔を拭き顔を拭きすると、しても、つぶつぶと目の下には浅黒いコンシーラーが残り詰まった毛穴を見ていると、
もう終盤のような気がしてくる。終焉という漢字は何と雄大で荘厳な響きをしているのだろうか。

何とはなしに、猛毒の草花をエゴサーチするとスズランなんかが出てきて、あんな一生懸命に仕事を覚えようとする新入社員のような顔をして何たること。
可愛いとかいうものはやはり普遍的でない。人間たるもの、人間にならねばならないのだ。

他にもトリカブトやジギタリスとかいう明らかに直感が避けるような言葉の響きが現れ、草花で終幕を迎えようなどとはあまりにも華やかで分不相応過ぎると私には思え、らしくないなと感じやめてしまった。
濁点が厭わしく思えるのは、寺社に悪いことはできないと思うのと同じような漠然とした宗教か。





目が覚めたらどうやら目は空いていないようで、放送されていないチャンネルを付けたブラウン管のテレビに顔をくっつけている景色がある。

今日は、2月12日の土曜日。2月12日日曜日なるものは、目が覚めなかったある私が望んだ1年後である。

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