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親と合わないと感じている人へ

このnote という機能は、とっても優しいんですね。

現在夜中の3:23。

書き出そうとまだ白紙の本文欄に目を移すと、

『こんばんは。お体に気をつけてくださいね』という旨のメッセージが。。。!

一瞬で一言一句あってないとは思うけど、

多分この時間に?noteを立ち上げたから、そんなメッセージなのかな?とか一瞬で妄想しちゃいましたよね。

朝は違うメッセージなのかなとか。。。


という、noteさんの優しいメッセージも

とってもとっても染みてしまう、

そんな夜を眠れずに終えようとしています。

私は対人を専門として仕事をしているのですが、

そしてまた今後そのプロになっていきたいとも思っている身なのですが、


そんな立場の私がいうのは、

きっと恥ずかしいことなのかもしれませんが、

という本来外に出さない方がいいかもしれない情けない話をこれから外に出してみようと思います。


私が隠していては、

私のクライアントも隠すだろうし、

私が人との関わりや自分との関わり大事にしていることとして、

そのまままずは感じ切る、

できれば表現してみる、

この2ステップはとても大切なので、

思い切って書いてみることにします。



今、正直3:30を周りだし、

眠れずにいます。


それは両親との関係性に、

今まで感じてきた以上に歪みを覚えたからです。

今までも、

(甘えたようですが、私の中で感じてきた主観ベースの話を書きます)

「愛されていなかった」

「認めて欲しかった」

「寂しい思いをした」

「私は兄と違って面倒のかかる子だ」

「出来が悪い」

「期待されていない」


そんな風に思っていました。

具体的にいうと、そういう気持ちを言語化して気づいたのは大学生くらいです。

そこから、

親を恨んだり

今将来についてこんなに迷ったり、

自分のことがわからずに苦しんでいるのは、

「得意なことを伸ばしてくれなかった親のせいだ」という具合に、

恨んだことも

文句を心の中で言ったこともありました。


それと同時に、

両親の状況を振り返るに、

「そうせざるを得なかったんだな」と当時の両親の肩を持つような、

そんな視点も持ちながら、

その二つの対照的な感情を一緒に内在させたり、

時にはどちらかが強かったり。


そして去年くらいに、

母親に直接話す機会があって、

「今責めたいわけじゃないからね」と前置を置いた上で「寂しかったし、お兄ちゃんと比較されて〜〜」とうろ覚えですが、

伝えたことはありました。泣きながら。


で、今何で眠れないのだろう。

実は数日前から(1ヶ月くらい)

自分の家の騒音が工事で酷くて、

在宅で人と話をする仕事をしている私にとっては、

問答無用で環境を変えないといけない状況になってしまいました。轟音です。

個室でないといけないのでコワーキングスペースはNG。

レンタルオフィスも家賃とは別にお金がかかり勿体無いと思った。

ということで、親の言葉にも甘え実家に帰ってきました。

あぁ、甘えてたんだなぁ、どこかで頼りにしていたんだなぁと今ではしみじみと自分を振り返っているところです。


それで、どんなことがあったかというと、

まず一言では書けなくてだいぶ端折ってしまうのですが、

まずまず、今私の胸が痛いのは、

きっと両親から言われてはショックな言葉を言われたからだと思います。

元カレとは何で別れたのか?という母からの質問に応えていた時のこと

私が話していることが

あまり伝わっていなかったのか

父親が理解できていないようでした。

そしてより順序立てて説明しようと話していたら、


父からは、

わからないとオーダーがあったのでより丁寧に説明をしようと冷静に落ち着いて話をしていたら

「その冷静な感じが受け入れ難い」

「理由はわからないけど説明できないけど」

のように言われ、拒絶された気分になりました。


そして、

「宗教みたい」「細木数子みたい」「教祖の話を聞いてるみたい」と母親が。

「あのとき私がおかしかったわ、といってる姿が見える」とも。

挙げ句の果てに、「こわい」「何か宗教に毒されていない」とまで言われてしまいました。


確かに私が伝えていることは世間一般に広く正しいと認識はされていないことかもしれません。

それでも、私は誰かを陥れたり、それは絶対の真理というスタンスではありません。

まぁ正直いうと、

人の仕組みや本質は赤ちゃんも認知症になったおじいちゃんおばあちゃんも、幻覚が見えている人も一緒だ、という基本スタンスは強く持っていますが。。。


ただ宗教の定義もわからないまま、

「宗教みたい」は言わないで欲しかったし、

それ以前にすごくすごくショックでした。


そして両親はその場を立ち去り、

議論や会話を放棄していきました。


それがまた私にとってはショックでした。

実家ですが、大変に居心地が悪く肩身が狭い感覚。


「こわい」という一言に込められた見えない厚すぎる壁が一瞬にして出来あがりました。

もう、心を開いて本音で伝えていくことはないんだ、と。

しない関係性を意識しないと。

であれば家族の意味はなんだろう、とも考えています。


私は、

普段しっかりと自分の感情には蓋はしないものの、

対応自体は自他共に認めるような冷静な方で、

出来るだけマクロな視点での判断や、

白か黒ではなくグレーという選択肢も持つようにマクロに考えていくことを大切にしています。


そんな私でも

今回のその一瞬の出来事には動揺させられ、

本当にまずはショックでした。

今も胸が痛い感覚がずっとあります。

メンタルの勉強もしているのに、

情けないなという気持ちもあるのと同時に、

そんな気持ちも全て含めて等身大でいることを大切にしたいですが。


そんなところで1番の親友で、普段から

生き方や人の心や脳の観点から、

色んな愛ある話ができる友達に話を聞いてもらっていました。

こんな存在が1人でもいることにありがたい気持ちがあるのと同時に、


正直それ以外の人の顔がすぐには浮かばず、

そんな自分にもどこか自信をなくしたりと

そこから様々な自分が凹むような感情が色々な角度から出てきました。

暗くて見えないですが、

まずはありのままに出来るだけ全てを吐き出すように紙に書きました。1人の時間を使って。

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そしてそのあとも、色々と自分のケアをまずは第一に(それだけショックだったので)

まずはすべての浮かんでくる気持ちに自ら寄り添うべく、内省しました。

でも本人なので、自分の反省点や、ひょっとしてこういう生き方をしてきたことが悪かったのか、

そんな感情も同時に湧いてくるものなので、

それも含めて

とりあえず今湧いてくる感情を色んな角度からのバラバラな感情でいいので、

書くことにしたのですね。


でもまだ胸が痛いです。


色んな感情があります。

両親との双方に上面なコミュニケーションの果てにこういうことが起きたのだという気持ち。(世間的にはよく、仲がいいと言われる家族です)


でも相談できなかったし、

変な話ですみませんが、私は初潮が来た時も何回目かまで言えずに、結局バレて発覚したというくらい

小さな頃から一番身近な親に、そういう相談や報告ができませんでした。

今でも墓場まで持って帰ろうとおもっているぉとがいくつもあります。

なので、本当の意味で信頼したり、

安心したり、ママパパと言って泣きついたりという感覚がないです。

(多分こういう家庭の方が普通だよ!とツッコミも入りそうですが。。。!)

それ自体は問題じゃなく、

私はその事実に加え、「寂しい」と感じていることなんですよね。

昨年母に話して、禊は完了していると思っていました。

でも違うようでした。


今日その言葉を両親から言われ、

瞬間的にこう思ったし、実際に言葉にしてしまっていました。

「ずっと否定してるよね(私のこと)」と。

認められたことがないという感覚が奥底であったのでしょうね。


確かに、料理の味、盛り付けのセンスなどは

本当によく褒められます。

美味しいもの好きな両親なので。

そして、最近では「かなこの言う言葉に救われた」「楽になった」と母親が言ってくれています。


でも、なんだろう

この心が近くない感じ。

本当の悩みはあまり言えない感じ。

虚無感。


親にそれはもう求めちゃいけないよと言われればその通りかもしれませんが、


自分にも関わる人にも本音で話して共有しあいたいという価値観を私は人より強く持っているようなので、

その関係性は虚しく感じてしまうのかもしれません。


なぜ、化学者で研究職の父親が

そんな冷静な態度が逆に気に食わなかったのだろう、

そうして伝わらなかったのだろう、


ここ最近親族間での問題や急死が相次いでいて、

家族で深い話をする機会が多くありました。


以前にも父親への違和感を感じていました。

それは私が認識していた父親がいう発言とは信じがたい発言があったから。


起きたトラブルについては、具体的な解決策を黙々と一歩一歩やっていくしかない。

これはみんなアグリーです。


一方で解決策が見つかって歩み始めたのであれば、

今度はそもそも、なぜこのようなことが起きたのか?人が起こした(取り返しのつかない)過ちです。

その人はなぜそういう行動をしてしまったのか、

それ以前に見えない部分で、

本人の中に起こっていた思考や入っている強すぎる信念や恐怖はなんだったのだろうか、


そしてそうなってしまった環境は、その親との関係はどんなものだったのだろうか。


聴けば聴くほど、

その生まれた環境と親の(歪んでしまった)考え方が根源と思わざるを得ませんでした。

それを確かめることは誰にもできません。

そしてその親もまた同じ悲しさや不安の中に育ったのかもしれないと、哀しい連鎖を想像してもしまいます。


ただの考えすぎと言えばそれまでですし、

そういう行動をして親族に迷惑をかける人なんて論外なんだから、考えても無駄とそういう人もいると思います。


父親はそういう発言をしたんです。

ショックでした。

冷静で客観的で、

何かあったときは母ではなく父が話をしてくれた、そういう父親像があるので

まるで思考や客観性や、思いやりを放棄したような姿に見えてしまって、父こそ変わってしまったとすら思いました。

もしくは、私の認識違いだったのかとも思いました。

いずれにしても、とても残念で悲しかったです。


こう言った人間に対する深い洞察や原因を分析しようと努めることは有意義だという、

私の価値観はより強固になりました。

だから、対人の仕事を専門としてやっていくと決めているのですよね。

でも同時に自信を失いかけています。

一番身近な親という存在に、

宗教みたい

こわい


と言われ、否定されたのですからね。



と、書ききれないほど

いろんな思いが巡っていました。


父親も定年退職し、

給与も新卒並みのほんの少し

やりがいのある仕事はできていないようなことを遠回しに言っていたのを覚えています。


そんな父親自身の存在意義が

父としては本人の自覚があろうがなかろうが、

危ぶまれている状態なのかな?とも

ちょっと同情めいていて気持ち悪いと思う人もいるかもしれませんが、


私なりに父親の立場を想像し、

そんな可能性も考えてしまったほどです。

だから娘の言うことが、

その冷静さが逆に相入れないと言ったり

順序立てて落ち着いて話をしていても(私としてはそのつもりという意味)、

全く伝わらないのは、

多分私自身が

父を尊重するスタンスや雰囲気を取れていなかったからなのかもしれない、とも反省しました。


勝手ながら、

父には失礼かもしれませんが、

そんなことも考えてしまいました。


この一件からここまで思考や感情が膨張してしまい、

この時間に至っています。4:15ですよ、もう。。。


やはり胸が痛く、

実家を出て、どこか仕事ができる場所(でも今月は税金年金でお金も使うし、あまり費用はかけられないなぁという心配をしつつ)

を探さねばと、

実家とは距離を置いてみようと今考えています。

ただ、無愛想に出て行っても何も産まないので


こういったショックだったということと、

自分なりに思うところ

反省したすべての感情

自信を失いかけながらもやっぱりそれでも大事にしたいと思ったこと

両親へリスペクトの思いがなくなってしまっていたこと


その時の雰囲気や相手の様子を見ながらですが、

少しでも誠実に伝え、

今はみんなで距離を取る方向がいいのではないかと話をしてみようと思います。


両親からしたら、何をそんなに気にしているのかという反応かもしれませんし

娘が変わってしまった

教祖みたいでこわいという印象のままかもしれませんが、


そうであれば尚更距離を取る方向がいいのかもしれません。


ちなみに宗教は、

経典があること

それは絶対真理だということ

そしてそれ以外を排除すること


この3つが揃って宗教です。

私には経典もなければ、排除もしません。

ただ、本人が少しでも自分に優しくなれたり、

大変な状況でも自分を楽にさせる術をみんなと共有したいだけです。

その先に豊かな各々の人生のためです。

余計なお世話なのかな、

やってること怪しいのかな

これって宗教的なのかなとだいぶ落ち込みました。


そんな時

私が本を読ませていただいている、

大学の先輩でもある鈴木真奈美さんの名前が脳に浮かびました。


かなりの記事をストックされているブログを今でも書いていらっしゃるので、

迷わず「鈴木真奈美 親」と検索し記事を読みました。

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ブログにも、絶対的にその人の中で起きる主観に寄り添った

思いやりの深い言葉が並べられていて、

今まで以上ににしみじみと読ませていただきました。


鈴木真奈美さんという方は、

私は面識自体はほぼなく、あまり存じ上げない中ではありますが

本の世界観が大変に優しく、

対人のプロの先輩として本を通じ勉強させてもらっています。


その中でわかるのは、

本当にこの方は、心からこの仕事を楽しんでいて、自分の豊かさに通じることでしかないということ。

日本語が変になっちゃいましたが、

鈴木真奈美さんの言葉をお借りすると、

使命に生きているかただと感じます。


薄っぺらい取り繕ったいい人感、

頑張ってる感、

その職業に自分がちょっと無理して染まっている感はぶっちゃけ出ちゃいます。


この方には、それが感じられず、ご本人がやっていて癒されることでもあるのだろうなと、

本当に素敵なサイクルを回されているのだなと、

だからいつも発信側であるにもかかわらず「感謝」「幸せ」という言葉が頻発しているのだと思います。


そういう自分の生き方にも素直な方がいう言葉なので、私もストレートに受け取り、

今日は出来るだけ明日の仕事に備えて目を閉じて自分をケアしてあげたいと思います。


自分だけですからね、

どんな自分にも耳を傾けてあげられるの。


私は鈴木真奈美さんのような穏やかなタイプの専門家ではないですが、

共通して自分にも素直で

そしてその仕事を通して、クライアント以上に自分が癒されていくような

そんなサイクルに感謝できるような、

幸せを実感しながら仕事できるような


そんな人になりたいとも改めて思いました。

今日は自分のハートに感謝して寝ます。

「よくドキンドキンしながら耐えたなぁ!」と。「おやすみね。死ぬ時までよろしくね」と語りかけながら。。。。。


等身大note

お目汚し失礼いたしました!

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