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平泉澄先生『芭蕉の俤』覚書 その五

 いつもお読みいただき、ありがたうございます。玉川可奈子です。
 平泉澄先生の『芭蕉の俤』覚書も、いよいよ今回で最終回です。少し長くなりますが、最後までお付き合ひください。

 前回は陶淵明と白楽天でした。今回は、韓退之です。そして最後の「芭蕉の俤」に入ります。「芭蕉の俤」は結論部分になります。

韓退之

 まづは「第七 韓退之」です。

 百錬剛気の高士として、雄厚博大の文豪として、韓退之の名はとどろきわたつてゐるが、歴史家としては多く聞ゆるところが無い。第一、彼が史官に任ぜられてゐた事も、一般には注意せられてゐないやうである。それは一つには、史官在任の期間が、非常に短かつた為であらう。即ち彼は陽山より呼び戻されて後、元和二年、四十歳にして、権知国子博士となり、翌年真博士に改められ、一時河南の県令となつたり職方員外郎となつたりしたが、元和七年にまた博士となつた。彼はしばしばしりぞけられ、又官を下げられたので、進学解を作つて自ら慰めた。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 平泉澄先生は、韓退之を「歴史家」として捉へやうと試みてゐます。能文家としての韓退之の印象が強いので、不思議な感じがします。

 終を慎むといふ事は、歴史に於いて極めて大切なところである。ここに終を慎むといふは、晩節をけがさざるの意である。初あらざることなし、よく終あることすくなしといふが、晩節を全うしてこそ、若き日の美事善行も輝くのであつて、老年に及んで威権に屈従し、栄達に奔走し、変説改論して憚らず、乃至は老いらくの邪恋に狂つて車夫馬丁も猶且つ恥づる醜行を演ずるに至れば、従前数十年、営々刻苦して積み来つた徳は、一時に土崩瓦解するのである。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社
 天下の評価は、決して個人閉眼の時に確定するものではない。目あき千人、目くら千人といふが、評判は常に浮動して止まず、真実の判定は、百年二百年の後、偉大なる歴史家の出現を待たなければならない場合が少なくない。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社
 棺を蓋うて事乃ち定まるといふは、功罪の判定、人物の評価が確定するといふ意味では無い。その判定の資料が出揃ひ、評価の対象が固定するといふ意味である。生きて居る間は、まだどのやうに浮動するか分らない。わづかの栄誉利達欲情の為に、晩節をけがす者の、ああ何と多い事であらう。流石は韓退之である。彼は左遷せられて陽山の窮地に赴くに当り、棺を蓋うて事乃ち定まると歌つて、自ら励ました。又史官として元侍御に答へては、名節の士の子孫たるもの、その窮に終始して、晩節をけがさざらむことを希望した。歴史を考へ、人物を見るに、要点を把握せるものと云つてよいであらう。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 ここでは主に、「晩節を汚さない」ことについて述べてゐます。韓退之は、その晩節を汚さない生き方をしました。

 退之一生の事蹟、正をふんで利害をかへりみない点から考へ、また元侍御に答へて史官としての見識を明かにしたところから見、また一年余りの史官在職中に作つた順宗実録の直筆が小人どもの忌むところとなつた事から判断して、歴史家としての実際が決して劉秀才に答へた書の通りではなく、従つて柳宗元によつて痛烈に批判されるやうなもので無かつた事は、十分に推測せられるのであるが、しからば何故にあのやうな答書を作つたのであらうかといふに、恐らくそれは劉秀才が、退之史館に入ると聞いて、急速に、且つ激烈に、唐の歴史を書いて、盛に褒貶を行ふべしとの、尖鋭な意見を寄せたので、わざとあのやうな返答を与へて、事の軽々しくすべからざるを諭し、その沈着なる研鑽を要求したのであらう。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 韓退之が柳宗元に批判されることになつた答書を書いた理由を述べてゐます。

 若し道義にして無視せられ、名節にして廃棄せられ、気概も無く、操守も無いといふ事であれば、歴史は成立たないであらう。存するものは、ただ欲望の跳梁、勢力の推移、動物の世界と何程の相違も無い。
 歴史は人格の所産である。道義名節は歴史の支柱である。成敗は時の運、やむを得ざるものがあらう。命はいづれ終るもの、いかに心を碎いても、百年を保つことはむつかしい。しかも事は敗れ命は失はれつつ、千古不滅の光を放つものは、道義名節である。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 ここは注目すべき箇所です。
 平泉澄先生が歴史をどのやうに捉へてゐたのか、そのことが如実に現れてゐます。「歴史を作るもの、それは人格」。それを歴史家は、歴史を学ぶ者は如何に理解するか。深く深く自己を顧みます。

 韓退之は、たとへ史官在職わづか二年に過ぎず、執筆せる史書の多くは無かつたとしても、真実の偉大なる歴史家としてよいであらう。原道その他に於いて、先王の道を明かにして、孔子の遺教は外ならぬ孟子に伝はつたものである事を説き、拘幽操を作り、また伯夷頌を書いて、大義の根本を弁じ、大に古道を発揮した功績は、進学解にいはゆる墜緒の茫々たるを尋ね、独りあまねく捜つて遠くつぎ、百川を障へて之を東せしめ、狂瀾を既倒に廻したものといつてよく、蘇東坡が賛して文は八代の衰を起し、道は天下の溺をすくひ云々と述べたのは決して過褒ではない。従つて退之は歴史の伝統を継承し、之を興隆したもの、即ち歴史に生きたものといふべきである。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 ここは、平泉澄先生が韓退之を歴史家と見て良い理由を述べてゐます。末尾の「歴史の伝統を継承し…」といふ点は特に重く響きます。
 なほ、「拘幽操」は、山崎闇斎先生が高く評価されたことで知られてゐます。そして、「拘幽操」の精神は菅原道真公と通じると平泉澄先生は評価されてゐます。

 芭蕉と韓退之との間に、直接の連絡は見当らぬ。また芭蕉が歴史家であつたなどと考へる人は、何処にもあるまい。韓退之は、しばらくの間ではあつたが、史館修撰の職に在つた。しかし芭蕉は、修史の業にたづさはつた事、一度も無かつた。のみならず、その手に成つたものに、歴史とか、伝記とか、名づくべき文は、一つも無い。そればかりでなく、芭蕉の文には、歴史的不正確さへ顕著である。奥の細道は、昔の歴史でなく、彼自身の紀行であるが、それにせへ時日の不正確はいちじるしい。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 ここから韓退之を離れ、芭蕉について論じます。
 芭蕉と韓退之に直接の連絡はないのに、何故、平泉先生は韓退之を結論の「芭蕉の俤」の前に置いたのでせうか。それは、韓退之は「歴史家」であり、後に述べるが芭蕉は「歴史を呼吸した」人物だからである。そこに両者の共通点を見出したのです。

 大日本史は袋草子によつて能因の奥州下向を事実と判定し、十訓抄等の伝説を後人の附会として排除した。芭蕉が彼の有名なる伝説を知らない筈の無い事は、猶彼が彰考館の研究を知つてゐる筈の無いのと、同様である。然るに芭蕉は、彼の伝説を否定して、能因の奥州下向を事実と見、期せずして水戸の学者と同じ立場に立つた。
 今日の学者が十訓抄等の伝へる所をしりぞけて、能因の奥州下向を実説とするは、大日本史のやうに袋草子を根拠とするものでは無く、寧ろ後拾遺集及び能因法師集に據るのであるが、家集を見る機会は、芭蕉には無かつたであらうから、芭蕉が頼りにしたのは、専ら後拾遺集であつたに相違ない。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 ここでは、芭蕉の歴史観が水戸の『大日本史』と重なつた点を述べてゐます。『大日本史』はきはめて科学的なる視点によつて作られた史書です。前に『おくのほそ道』には誤りが多いと指摘されましたが、芭蕉には歴史家としての優れた感性があつたと記してゐます。
 なほ、水戸学については近年復刊した名越時正先生の次の書をお読みください。

   山路来て 何やらゆかし 菫草
   よく見れば 薺花咲く 垣根かな
 私は芭蕉の数多き句の中に於いて、特に此の二つに深く心をうたれるのである。それは何等珍奇の現象でもなく、特異の風景でも無い。些細であり、平凡であり、天下周知であり、日常茶飯である。それ故に普通の人は、之に気附かず、之を見過ごし、之を棄てて顧みないのである。しかるに芭蕉は、此の些細に著目し、此の平凡に驚嘆し、ここに造化の妙を見、ここに自然の美を歌つた。人の世の濁りに染まつた心、利害の欲情に曇つた眼には、見られない景色である。
   月早し 梢は雨を持ちながら
 この句に至つては更に深刻なるものがある。ただ是れ眼前の実景、ありのままの描写であるが、しかも自然雄渾の美と、変化流転のあわただしさと、人の世のはかなさと、我が身の孤独と、一切が一句に凝結し、万感が十七字に収約せられてゐるのである。自然の観照に徹し、人生の真実に迫つてゐる者でなければ、吟ずる事の出来ない句である。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 平凡なる句に平泉澄先生は偉大なるものを見出すのです。これは、「人生の真実」に迫つてゐなければできない…。先生もまた「人生の真実」に迫つた情の人でした。

 芭蕉は些細なるものに注意し、平凡なるものに驚嘆し、その本質を洞察し、その個性を把握した。されば其の対象にして歴史でさへあれば、彼は直ちに偉大なる歴史家となる筈である。個々の些細なる出来事、平凡の生活にも、深い同情、鋭い観察を惜しまず、みだりに理念と法則とを振りかざして、一般化し普遍化する僭越を敢てせず、よく個性をつかんで其の特質を発揮するに違ないのである。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 些細なものへの注意、平凡なるものへの驚嘆、本質の洞察…これらは和歌の世界でも大切であり、さらに歴史においても重要です。
 この箇所も平泉澄先生の歴史観、芭蕉といふ人物を捉へる上で重要な点と思はれます。

 凡そ大小を問はず、古今を論ぜず、物皆の本質に徹し、人々の個性をつかむといふ事は、凡智浅慮のよくするところでは無い。その為には先づ己の心を深めなければならぬ。しかも己が心を深めるといふは、決してなまやさしい事では無い。それは浅智を打ち、俗情をたたき、心中一歳の不純を除去し去つて、初めて可能である。それは猶明鏡を鍛へ成すが如くであらう。鏡は百錬にしてよく姸醜を写す。心辛苦を経ずして真実を理解するは、あり得べき事ではない。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 しかしながら、本質の洞察、個性をつかむことは簡単にできることではありません。自分自身の心をまづ深めなくてはならない。そしてそれは決して楽なことではない。鍛錬を要することを先生は述べてをられます。そして、芭蕉はそれを為した人物だと次に述べてゐます。

 芭蕉が貧苦に甘んじ、険難を踏んで、其の心を深めた生活態度は、雪霰満牀の高僧に異なるものでは無かつた。名利を棄てる事は、必ずしも難しとしないであらう。名利を棄てて、しかも懈怠に陥らず、刻苦して心身を錬磨するといふ事は、常人のよくせざるところである。
   此道や 行く人なしに 秋の暮
仕官懸命の地をうらやむ心、仏籬祖室の扉に入らむと欲する情、共に離れて、ひたすらたどりなき風雲に身をせめ、まことの俳諧をつたへむとし、骨髄よりあぶらを出した芭蕉の境地は、一世に冠絶し、古今に独歩するものであつた。
 芭蕉が草鞋に足をいため、破れたる笠に雨を凌いで、漂泊の旅に身を苦しめ、険難の道に心を責めたのは、谿聲山色、その本質を把握し、その実相を照破せむが為であつた。ほしいままなる浅慮俗情を以て、自然をけがし、人生を誤るを欲せず、私意を去り、私情を棄てて、造化に随順し、自然に融合せむが為であつた。その常に門人に諭して、「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」といひ、また「風雅は私の無きこそ誠とや言はん」といつたのは、実に此の意味であつた。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 平泉先生はこのやうに芭蕉を評価されます。芭蕉はただ風雅に生きたのではない。そこには厳しい鍛錬があつたのでした。

 芭蕉は西行を慕ひ、ただ其の細き一筋につながらうとつとめた。いひかへれば、西行は芭蕉の心のうちに復活したのである。それは先づ山家集の熟読より得られたものであるに相違ない。(中略)山家集を味読して、その深き心にうたれたる芭蕉は、次に各地に西行の遺跡をたづね、実地を踏み、実境に対して、しみじみと古人の遺詠を味はひ、時を数百年の後に隔てながら、身を西行の立場に立てて、その深き心の相伝を冀うた。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 平泉先生は「歴史は復活」であると論じましたが、まさに西行は芭蕉の心の中で復活したのでした。私どもが各地の史跡を訪ねる際、かうした態度が必要でありませう。ただ、現地に行くのではない。身を偉人の立場に立てて、深き心の相伝を願ふ態度です。

 風流の詩人西行が、一生武将の気魄を失はなかつたと同じやうに、軽みを説き、俗に帰れと教へた市井の隠者芭蕉は、凛然たる武士の風格を忘れる者ではなかつた。
 此の風格あればこそ、芭蕉は権力におもねらず、大勢にへつらはずして、敢へて特立独行した。「予が風雅は夏炉冬扇のごとし、衆にさかひて用ふる所なし」といひ、「此道や行人なしに秋の暮」と吟ずる所、一見すれば世捨人の寂しい述懐のやうであるが、まことは滔滔たる一世の風潮に抗し、権力と名利と卑俗とを斥けて、ひたすらに古人の垂れた細き一筋をたどらうとした剛勇の気象の現はれであつた。陸奥に流されて不遇のうちになくなつた藤原実方の墓を弔はうとしたのも、継信忠信兄弟が忠死の志を守つた嫁二人の遺蹟に涙を落したのも、忠孝勇義の士、和泉三郎忠衡寄進の灯籠に感歎之を久しうしたのも、高館に判官義経の数奇なる一生を悲しんで、時のうつるまで涙を流したのも、羽黒山に中興の功あつた法印天宥が流されて伊豆の小島に朽ちた事を悼んで、「その魂を羽黒にけへせ法の月」とよんだのも、すべて此の気象の発露でなくして、何であらうか。
 いや、それどころではない。芭蕉は建武延元の悲劇に泣き、承久仁治の悲運を悲んだ。吉野に後醍醐天皇の御陵を拝して吟じた
   御廟年を経て しのぶは何を 忍草
の一句、胸中の万感一気にこみあげ来つた激情を見るがよい。越後の国出雲崎より遥に佐渡を望み見てよんだ
   荒海や 佐渡によこたふ 天の川
の、痛烈悲壮の感懐を見るがよい。歴史の細き流れを、伝統の崇高なる一筋を、不遇敗残流離漂泊のうちにとらへて、かたく其の一筋につながり、私意俗情を棄てて古人に随順し、歴史の中に呼吸したのが、実に芭蕉であつた。自ら潮州に貶せられて藍間の雪に踏み悩む事こそ無かつたものの、正をふんで恐れず、義烈を讃へて泣く心、即ち真に古人の心にふれ、歴史の基底を貫く精神を継承する純情、それを芭蕉はもつてゐたのである。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 ここにはまさに芭蕉の本質が描かれてゐます。この一節を導くために今までの論があつたと言つても過言ではないでせう。


芭蕉の俤

 最後は本書の結論である、第八 芭蕉の俤です。全て、この章を述べるために前説がありました。

 後年の芭蕉は、人生の表裏に徹底し、自然の実相を照破して、身は市井に交はり、心は俗情を憐れみながら、利害は之を超越し、癡情は之を一掃した。静節の高士として歴史に呼吸し、風雅の沙門として雪月に冥合する芭蕉は、西鶴や巣林子とは、別趣格段の境地に在る。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 私はここに自身の人生の終着点を見出します。かうした境地に至れればと願つてやみません。

 芭蕉は自ら其の経歴を語る事をしない。ひとり自らの経歴を喋々するを欲しなかつたばかりで無く、風雅の道に於いても、含蓄を重んじて、暴露を嫌つた。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社
 芭蕉は、云ひおほす事を好まなかつた事、明かである。云ひおほすとは、詳細周到なる描写、完全十分なる表現、隅々まで行届いた説明の事である。それを忌み、それを嫌つたといふのであるから、芭蕉の重んじたのは、余情であり、余韻であり、含蓄であり、象徴であつた事明かである。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 ここでは芭蕉といふ人物の特徴、そしてその特質を挙げてゐます。

 芭蕉は俤といふ文字を用ひて、この言葉をしばしばつかつてゐる。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社
 芭蕉に於いて、おもかげに立つは、誰人であつたか。それは恋人でも無く、変化でも無く、遠い昔の、史上の人物である。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 ここでは「俤」といふ字を用ゐた意図が明らかになります。まさに、芭蕉は史上の人物を俤とし、古へを慕つたのでした。

 蕪村に在つては、昔と今と、時を異にし、古人と作者と、何のつながりも無く、ただ興趣豊かなる歴史の一場面を想像して、一幅の書画を描き出してゐるのである。しかるに芭蕉に於いては、昔と今と、時、相連なり、古人と作者と、涙、相通じて、共に人世の悲痛に泣くのである。
   むざんやな かぶとの下の きりぎりす
 芭蕉は齋藤別当を弔はうとして、いつかし自ら実盛に同化し、自ら其の悲運を歎じてゐるのである。蕪村は、歴史を眺めた。芭蕉は、歴史を呼吸した。芭蕉と古人との関係は、同感であり、妙契であり、冥合であり、感応であつた。而して斯くの如き妙契の最上、感応の極致を、西行との関係に於いて見るのである。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 本書の末尾で、蕪村と比較します。蕪村は歴史を客観的に見ましたが、芭蕉は歴史の世界に没入しました。
 鑑真に対し、「若葉して 御目のしづく ぬぐはばや」の句は、まさにさうでありませう。私は芭蕉の情の深さ、そして偉大さを本書を通じて知り、そして心を打たれるのです。

 附録 銀杏落葉 は平泉先生が大学時代、ことに先生の先生に当たる方々との関係を回想されたものです。今回は割愛します。

 『芭蕉の俤』はとても素敵な本です。多くの人に読んでいただきたいと思ひ、この覚書を書きました。最後までお付き合ひいただき、ありがたうございました。

 おくのほそ道をめぐる旅を合はせてお読みいただけると幸甚です。

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