おくのほそ道をめぐる旅
この記事に目をとどめていただき、ありがたうございます。読んでくださる方々の「スキ」に励まされてをります。また、フォロワーつて、どうしたら増えるのでせうか。よくわからないので、いつも通りに書きます。
二年前の秋、短い夏休みを利用し、東北に行きました。ちやうど、芭蕉の『おくのほそ道』に親しんでをり、この際だから芭蕉の巡つた地を巡らうと思ひ、一歩踏み出してきました。その時のことを思ひ出して書きました。当時撮影した写真をいくつか断捨離してしまひ、欠けてゐますが、どうか、最後までお付き合ひください。
なほ、私は和歌(やまとうた)や『万葉集』にはちよつぴり詳しいと自認してゐますが、俳句はまつたくわかりませんし、俳句自体に興味がありません。ご了承ください。
また、以下の記事にも『おくのほそ道』のことを少しだけ記してゐますので、ご参照いただければ幸甚です。
矢立て初め
芭蕉の旅は旧暦三月二十七日でしたが、上の通り私は八月の末頃です。出発、矢立て初めは千住…ではなく、バスタ新宿から夜行バスです。ドリーム山形号ですが、武漢熱禍の影響で空席が目立つてゐました。画像を見ての通り、三列シートで乗り心地は良かつたです。
疲れてゐたのか、すぐに寝てしまひ、知らぬ間に白河の関を越えてゐました。もちろん草加、室の八島、日光などは旅程に入つてゐません。
白河の関で、芭蕉の門人である曾良は、
卯の花を かざしに関の 晴れ着かな
の句を作りました。
ぬばたまの 夜半にや越ゆる 白河の 関を見ぬ間に みちの奥かな 可奈子
さて翌朝早く山形駅前に到着しました。まづは、かみのやま温泉駅に向かひます。山形駅から奥羽本線で南に三つほど進めば、かみのやま温泉駅に着きます。街中にはいくつかの公共浴場があり、私は駅から十分ほど歩いたところにある二日町共同浴場に行きました。
温泉に入り、クーラーで冷えた身体を温めます。小さな湯船が二つある熱めの湯(ナトリウム・カルシウム塩化物泉)で、芯から温まりました。風呂上がりに汗が止まらなくなりました。ちなみに、150円で入れます。
山寺
かみのやま温泉駅から再び奥羽本線で山形駅に向かひ、ここからさらに仙山線に乗り換へて山寺駅に行きました。
山寺は立石寺といふお寺です。清和天皇の勅願により、慈覚大師円仁(第三代天台座主)が開山したと伝はつてゐます。芭蕉は、尾花沢の後にここに来てゐますが、私は最初にここに来ました。芭蕉が到着した時は日も暮れてをらず、麓の宿坊に宿を取り、山上の僧堂に行きました。
ここには、比叡山延暦寺と同様、不滅の灯明があります。延暦寺が織田信長により焼き討ちにあひ、再建の時にこの寺の灯明を分灯したことが知られてゐます。それも見せていただきました。
羽の国の 山のみ寺の 火はけふも あかあかと燃ゆ たゆることなく 可奈子
芭蕉は、山寺のことを『おくのほそ道』に次のやうに書きました。
「閑かさや…」の句は大変有名なものでせう。
山寺へは、上り階段をひたすら登りました。私は慢性的に膝の痛みを抱へてゐますが、ノルディックポールのお陰でスイスイと登ることができました。山の上から下を眺めると、見事な眺望です。
ゆつくり降りた後、参道のお店で肉そばを食べました。山形牛を使つてゐるさうで、とても美味しいおそばでした。さういへば、山形県はおそばの産地でしたね。歩いた後は、パインソーダを飲みたくなりますね。
さらに山寺芭蕉記念館まで歩き、見学してから、再び仙山線に乗りました。山寺駅の次の面白山高原駅は秘境駅で知られてゐます。さらにその先にある愛子駅は、「あやし」と読みます。
多賀城
仙台駅に着きましたが、芭蕉も訪ねた宮城野には行きませんでした。さらにここで東北本線に乗り換へ、多賀城に行きました。多賀城駅から歩いて十分程度で多賀城碑に着きました。多賀城碑は、『おくのほそ道』では「壺の碑」とされてゐます。「壺の碑」は坂上田村麻呂が弓筈で日本中央と彫りつけたといはれる歌枕で、青森県にあつたといひます。
芭蕉は、
と記し、激賞してゐます。
多賀城は大伴家持が薨じた地だと思ふのですが、如何でせう。政庁跡は大きく、太宰府を思はせます。
松島と塩竈
多賀城駅から次は、塩釜駅に向かひます。芭蕉は早朝に参拝しましたが、私は昼過ぎに塩竈の明神、すなはち塩竈神社に参拝しました。
『おくのほそ道』には、
この時のことを書き記してゐます。
長い階段を上り、本殿を参拝しました。志波彦神社も参拝し、歩いて本塩釜駅に向かひ、松島に行きます。なほ、末の松山と沖の石は後日訪ねました。前掲の「週末パスの旅 下」をご覧ください。
松島海岸駅まではすぐでした。空が少し曇つてきましたので、先を急ぎます。まづ瑞巌寺を参拝しました。慈覚大師円仁の開山といはれてをり、伊達政宗の菩提寺としても有名です。ここも芭蕉は参拝してゐます。そして、松島を岸から眺めました。
まさに、「扶桑第一の好風にして、およそ洞庭西湖を恥ぢ」ない景色でせう。「松の緑こまやかに、枝葉汐風に吹きたはめて、屈曲をのづからためたるがごとし。其の気色窅然として、美人の顔を粧ふ。ちはや振る神のむかし、大山ずみのなせるわざにや」と『おくのほそ道』に讃へられた景色を堪能しました。
門人曾良は、
松島や 鶴に身を借れ ほととぎす
といふ句を作つてゐます。
なほ、よく知られてゐる、
松島や ああ松島や 松島や
の句は芭蕉のものではなく、相模の田原坊の作ではないかと思はれるといふ話を聞いたことがあります。
松島の 沖の小島に 寄す波の 間なくときなく 思ほゆるかも 可奈子
駅に戻る直前に、大雨が降りました。幸ひ濡れることなく松島海岸駅に着くことができ、石巻駅を経由して小牛田駅に着きました。ここから東北本線を乗り継いでで一関駅まで行きました。列車はオールロングシートの701系ですが、私は気にしません。車内は空いてゐました。
駅前の東横インで一泊し、駅前の支那料理屋でラーメンを食べ、明日に備へました。
※701系といへば、これですね…。
平泉
翌日は、一関駅から平泉駅へ行きました。一関駅から平泉駅までは次の次です。雨が降つてゐましたが、駅前で自転車を借り、無量光院跡、高館義経堂、中尊寺、毛越寺を参拝して周りました。この時のレンタサイクルが面白く、なんと自動販売機でカプセルに入つが鍵を取り出し、該当する番号の自転車に乗るといふ仕組みでした。
まづは、無量光院跡に来ました。「三代の栄燿一睡の中にして…」といふ一節が思ひ浮かびます。次に、源義経が討死した高館です。義経を祀る小さなお堂が鎮座してゐます。売店のをぢさんが、「雨の中、よく来たね。何処から来たの。ゆつくりして行つてね」と言つてゐました。
と芭蕉は『おくのほそ道』に書き記してゐます。芭蕉は、木曾義仲に対してもさうであつてやうに、敗者に対する同情をもつてゐました。それは、佐渡にお移りになられた順徳天皇に対してもさうでした。
中尊寺で金色堂を見、毛越寺の庭園を見て、往時の繁栄を偲びました。この地で都以上の文化があつたことに驚嘆します。芭蕉の時代の中尊寺は、
といふ状況でした。光堂は金色堂のことで、三代とは、藤原清衡、基衡、秀衡のことです。
平泉の温泉施設で温泉に入り、雨で冷えた身体を温めました。ナトリウム塩化物泉のクセのない湯でした。サウナもあつたので、少しばかり入りました。入浴後、再び自転車で平泉駅に戻りました。帰りは雨が止んでゐたので助かりました。
つはものの 跡はかなしき 高館に 恨み残れど 雨な降りそね 可奈子
尿前の関と鳴子温泉
例によつて701系で一関駅に戻り、新幹線やまびこ号に乗り、古川駅で降りました。さすがは新幹線。速いですね。
古川駅から陸羽東線に乗りました。車両はキハ110系で快適です。鳴子温泉駅で降りました。そして、鳴子温泉駅から三十分近く歩いて尿前の関跡に行きました。『おくのほそ道』には、
とありますが、旅人まれなるところで、尿前の関の跡までの往復で人とすれ違ふことはありませんでした。
再び駅前に戻り、滝の湯に行きました。滝の湯は、白く濁つた湯で、いかにも温泉といふ感じがします。ph値も2.9と酸性度が高く、少し熱めです。これだけのお湯にわづか200円で入れるのだから、幸せです。宮城県の人を羨ましく思ひます。
陸羽東線で新庄駅に向かひます。車両はキハ110系で、ボックス席を一人で独占できました。途中の境田駅には、尿前の関を越えてきた芭蕉が宿つた封人の家があります。
蚤虱 馬の尿する 枕もと
とは、封人の家で芭蕉が作つた句です。
新庄駅前のホテルルートインに泊まりました。夕飯には米沢の駅弁、牛肉どまん中をいただきました。疲れてゐたのでマッサージを呼んで、施術の後、すぐに寝ました。マッサージは上手な方でした。新庄市などに出掛けられた際はどうぞ。
翌日は、陸羽西線に乗り、西を目指します。先ほどと同じく車両はキハ110系です。車窓右手には、最上川が見えてゐます。「最上川は、みちのくより出でて、山形を水上とす。ごてん・はやぶさなど云ふおそろしき難所有り。板敷山の北を流れて、果ては酒田の海に入る」と、芭蕉は『おくのほそ道』に書きました。
五月雨を 集めて早し 最上川
の芭蕉の句は、あまりにもよく知られてゐませう。
象潟
酒田で芭蕉は、
あつみ山や 吹浦けかて 夕すずみ
暑き日を 海にいれたり 最上川
の句を詠みました。
酒田駅に着き、さらにそこから羽越本線を北上します。
車窓左手には、よく晴れて、「朝日花やかにさし出づる程に」日本海が見えます。「酒田の湊より東北方、山を越え、磯を伝ひ、いさごをふみて其の際十里」やがて、目的地の象潟駅に行きました。右手には鳥海山がよく見えてゐます。
芭蕉が訪ねた時の象潟は、まだ海底が隆起してゐませんでした。当時は、松島に並ぶ景勝地として知られてゐました。
駅からしばらく歩くと、干満珠寺(蚶満寺)に至ります。『おくのほそ道』の最北の地であり、ここには神功皇后の御陵があるといひます。境内では、猫が我が物顔で闊歩してゐました。
途中、参拝した熊野神社は芭蕉が訪れた時にお祭りをしてゐたところです。さらに、芭蕉が泊まつた宿(能登屋)の跡前を訪ねました。住宅街の中にあり、わかりづらいです。彼がここを訪ねたのは元禄二年(1689)六月十六日のことでした。千住を発つてから二ヶ月以上の月日が経つてゐることがわかりませう。まさに、梅雨の時期であり、だからこそ「五月雨を…」の表現も生まれたのでせう。
道の駅象潟ねむの丘では温泉に入りました。四階の展望温泉「眺望の湯」は日本海の絶景を目の前に、塩辛い薄茶色に濁つた湯が特徴です。よく温まりました。
お風呂を上がつた後はレストランで海鮮丼(1450円)をいただきました。これも、美味しかつたですね。一階はお土産屋さんになつてゐて、眺めてゐるだけでも楽しいです。
また、六階の展望塔から象潟の町を望めば、ところどころに島の跡が残つてをり、往時を偲ぶことができませう。
「松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし」とはよくいつたものです。この地で芭蕉は、
象潟や 雨に西施が ねぶの花
の句を作りました。
うらみ多き 海なき潟と なりにける 象潟見れば 笑ふ松島 可奈子
能因が三年幽居したといふ能因島を見てから、象潟駅に戻りました。芭蕉は船で能因島に行きましたが、私は徒歩です。時と土地は大きく変はりました。
再び羽越本線の客となり、酒田駅から特急いなほ号に乗り、新潟駅へ行きました。大垣方面には向かはず、新幹線で「佐渡に横たふ天の川」を見ることなく、帰りました。
草まくら 旅行く君の 俤を 見る心地する みちの奥かも 可奈子
天ざかる ひなを行けども ふるさとを 忘れて思ふ 君し偲はゆ 可奈子
最後に、芭蕉や『おくのほそ道』に関する書籍は数多ありますが、角川ソフィア文庫版が親切でせう。また、平泉澄先生の『芭蕉の俤』(錦正社)が芭蕉の精神に迫つてゐると思ひます。どうか、御参考までに。
歴史を学び、地理を知つた上で旅をすると、その楽しみは何倍にもなりませう。そして、想像もしてゐなかつた発見もありませう。一歩踏み出して、今まで興味のなかつた世界を見てみるのも楽しいものですし、芭蕉といふ人物を理解する良い機会となりました。
最後までお読みいただき、ありがたうございました。感謝。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?