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山陽・阪神 うたの旅

 ある年の千早鍛錬会に参加する前の日に、兵庫県と大阪府の万葉故地や先哲の遺跡を巡る旅をしました。今回は、そのことを思ひ出して書きました。ただし私の過ちで、その時の写真を数枚ほど断捨離してしまひ、写真が少なめなのを遺憾とします。また、記憶に頼つてゐますので思ひ違ひをしてしまつてゐるかも知れません。その点はご了承いただければと存じます。どうか最後までお楽しみいただければ、幸甚です。
 私の旅はフィールドワークみたいなものですね。そこまで高尚かどうかはわかりませんが。
 なほ、千早鍛錬会については、以下のURLをご参照ください(「日本」に掲載された松村太樹さんによる報告です)。わかりやすくその様子が伝はつてきませう。
 ※令和四年の千早鍛錬会は中止になりました。

 出発は寝台特急サンライズ出雲号です。東京駅から姫路駅まで利用しました。姫路駅には五時二十分過ぎに到着します。特にここで何かをするわけでもなく、駅から駅を移動して山陽電気鉄道に乗ります。JR姫路駅から山陽姫路駅は少し離れてゐます。

サンライズ出雲
サンライズ出雲 ノビノビ座席

山陽電気鉄道に乗つて

 山陽姫路駅から、先づは山陽網干駅を目指します。飾磨駅で乗り換へ、山陽網干駅に着きます。

飾磨川

 途中、飾磨駅と西飾磨駅の間で川を渡りますが、ここは船場川といつて『万葉集』の飾磨川と考へられてゐます。

 風吹けば 波か立たむと さもらひに 都太の細江に 浦隠り居り (巻六・九四五)
 (風が吹くので波が立つだらうと状況を見て、都太の細江に浦隠れてゐる)

これは山部赤人の歌です。都太の細江は飾磨川の河口を指してゐます。

 印南野は 行き過ぎぬらし 天づたふ 日笠の浦に 波立てり見ゆ (巻七・一一七八)
 (印南野は通り過ぎたらしい。日笠の浦に波が立つのが見える)

この歌の作者はわかりません。上の句は「飾磨江は漕ぎ過ぎぬらし」といふ別伝があります。飾磨江は飾磨の入江のことですが、恐らくこの近くでせう。日笠の浦はどこかわかつてゐません。

 わたつみの 海に出でたる 飾磨川 絶えむ日にこそ 吾が恋ひやまめ (巻十五・三六〇五)
 (海に流れて行く飾磨川の水が絶える日があれば、その日にこそ私の恋は終はるであらう)

新羅に遣はされた使人の歌です。さらに列車は夢前川を渡り、山陽網干駅に着きます。

名寸隅

 山陽網干駅から東へ向かひます。しばらく列車に揺られ、江井ヶ浦駅で降ります。そこから、しばらく歩くと名寸隅(なきすみ)と呼ばれた海です。神亀三年(726)九月十五日に印南野行幸の際に作られた金村の長歌より反歌二首を見てみませう(ただし『続日本紀』によると、十月七日に行幸とあります)。

 玉藻刈る 海少女ども 見に行かむ 船舵もがも 波高くとも (巻六・九三六)
 (玉藻を刈る海女たちに会に行く船の舵が欲しいものよ。波が高からうとも)

 行きめぐり 見とも飽かめや 名寸隅の 船瀬の浜に しきる白波 (巻六・九三七)
 (めぐり歩いて、いくら見ても飽くことがあらう。名寸隅の船瀬の浜に寄せる白波は)

 二首目の歌の通り、見飽きることのない素敵な海です。この辺りにはウミガメも産卵に来るとか。

名寸隅
名寸隅

藤江の浦

 次の藤江駅で降り、南に数分歩くと藤江の浦と呼ばれた海があります。柿本人麻呂の次の歌が有名です。

 あらたへの 藤江の浦に すずき釣る 海人とか見らむ 旅行く我を (巻三・二五二)
 (藤江の浦にすずきを釣る海人と見るだらうか、旅をする私を)

この人麻呂の歌はそれなりに当時の人たちに知れわたつてゐたのでせう。天平八年(736)に新羅に遣はされた使人たちの歌に次のやうにあります。

 しろたへの 藤江の浦に 漁りする 海人とや見らむ 旅行く我を (巻十五・三六〇七)
 (藤江の浦に漁をする海人と見るだらうか。旅をする私を)

言葉の変化が見られるのが特徴的でせう。
 次に山部赤人の歌(神亀三年九月十五日)です。

 沖つ波 辺波を安み 漁りすと 藤江の浦に 船そさわける (巻六・九三九)
 (沖の波も岸辺の波もおだやかなので、漁をするとて、藤江の浦に船がたくさん出てゐるよ)

 釣りをする人がちやうどゐました。何となくいにしへが偲ばれます。

 あらたへの 藤江の浦に けふもかも 釣りする海人は いにしへの如 可奈子

藤江の浦

印南野

 また、この辺りを古くは印南野といひました。聖武天皇の行幸もあり、笠金村や山部赤人の歌が『万葉集』に残されてゐます。まづは人麻呂の歌を見てみませう。

 稲日野も 行き過ぎかてに 思へれば 心恋ほしき 加古の島見ゆ (巻三・二五三)
 (印南野も行き過ぎ難く思つてゐると、心に恋ひしく思つてゐた加古の島が見えてくるよ)

 次に山部赤人の歌です。

 印南野の 浅茅押しなべ さ寝る夜の 日長くあれば 家し偲はゆ (巻六・九四〇)
 (印南野の浅い茅を倒して旅寝をする夜が続くので、家が思はれてならない)

 巻七に収められた名も無き人の歌には次のやうにあります。

 家にして われは恋ひむな 印南野の 浅茅が上に 照りし月夜を (巻七・一一七九)
 (家に帰つてから私は恋しがるだらう。印南野の浅い茅の上に照る月を)

 赤人は家を思ひ、名も無き人は帰つてから印南野を恋ひしがる。人の感じ方はそれぞれといふところでせう。
 なほ、赤人の長歌は金村や同じ時代の車持千年と違つて「やすみしし わが大皇」と歌ひ出すところに特徴があります。金村と赤人は、たびたび行幸に供奉し天皇に歌を奉りました。このことはまた別の機会に譲ります。

 くさまくら たび行くわれは まがな道 乗りて見に来し 印南国原 可奈子

柿本神社と明石大門

 次に人丸前で列車から降り、駅を北に向かへば、柿本神社が鎮座してゐます。

柿本神社

 そして、ここには地理の授業で覚えさせられる、わが国の本初子午線の場所です。ロンドンのグリニッジ天文台(本初子午線)が東経0度で、明石が東経135度、それでイギリスとわが国との時差は何時間ですか。みたいな問題は定番です(答へは八時間。時差は15度で1時間生じます)。

 柿本神社はHPによると、「元和六年(1620年)当時、明石城主であった小笠原忠政公が人麿公を歌聖として大変崇敬され、縁深いこの地にお祀り致しました。」さうです。
 余談ですが、次の歌について一つ。

 ほのぼのと 明石の浦の 朝霧に 島隠れ行く 船をしぞ思ふ

 『古今和歌集』に収められてをり、人麻呂の歌とされてゐますが、『万葉集』に収められた人麻呂と比べたら上手いとは思へません。人麻呂伝説の一つでせう。

 舞子駅のあたりで明石海峡大橋の近くを通り過ぎます。ここはまさに「明石大門」です。次の人麻呂の歌が思ひ出されます。

 灯火の 明石大門に 入る日にか 漕ぎ別れなむ 家のあたり見ず (巻三・二五四)
 (明石海峡に入つて行く日に、漕ぎ別れて行くのだらうか。家のあたりを見ることなく)

 天離る 鄙の長道ゆ 恋ひ来れば 明石の門より 大和島見ゆ (巻三・二五五)
 (鄙の長い道のりを恋ひしく行けば、明石海峡から大和の山々が見えるよ)

二首目の歌も有名だつたのでせう。遣新羅使人は次のやうに歌ひました。

 天離る 鄙の長道を 恋ひ来れば 明石の門より 家のあたり見ゆ (巻十五・三六〇八)
 (鄙の長い道のりを恋ひしく行けば、明石海峡から家のあたりが見えるよ)

「長道ゆ」の「ゆ」が「を」に変化してゐますね。この歌から「どこどこを通つて」といふ意味のある「ゆ」が使はれなくなつてくる分岐点といふ説を聞いたことがあります。


 ともしびの 明石大門に 見はるかす 大和島根に 雲のたなびく 可奈子

湊川神社

 山陽電気鉄道の旅は西代駅で終はり、神戸高速線に変はり、高速神戸駅まで来ました。ここは地下に駅があります。地上に出ると、そこには湊川神社が鎮座してゐます。

 湊川神社は楠木正成公をお祀りしてゐます。湊川神社と御祭神の楠公については参考までに、以下の動画をどうぞ。十分頃に現れる広報室長の巫女の方はとても綺麗で、素敵な方ですね。そして、この方とお付き合ひする男性は、同じやうに素敵な方でせうね。

 ここは私があれこれと記すより、歌によつてまづは楠木正成公の人物像と河内出身の楠公が神戸のこの地にお祀りされてゐるのかを見てみませう。ご存知、「楠公の歌」です。

一、青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ
  木の下陰に駒とめて 世の行く末をつくづくと
  忍ぶ鎧の袖の上に 散るは涙かはた露か

二、正成涙を打ち払ひ 我が子正行呼び寄せて
  父は兵庫に赴かん 彼方の浦にて討ち死にせん
  汝はここまで来つれども とくとく帰れ故郷へ

三、父上いかにのたまふも 見捨てまつりてわれ一人
  いかで帰らん帰られん この正行は年こそは
  未だ若けれ諸ともに 御供仕へん死出の旅

四、汝をここより帰さんは 我が私の為ならず
  おのれ討死為さんには 世は高氏の儘ならん
  早く生ひ立ち大君 仕へまつれよ国の為

五、この一刀は住にし年 君の賜ひしものなるぞ
  この世の別れの形見にと 汝にこれを贈りてん
  行けよ正行故郷へ 老いたる母の待ちまさん

六、共に見送り見返りて 別れを惜しむ折からに
  またも降りくる五月雨の 大空に聞こゆる時鳥
  誰か哀れと聞かざらん あはれ血に泣くその声を

七、遠く沖べを見渡せば 浮かべる舟のその数は
  幾千万とも白波の 此方をさして寄せて来ぬ
  陸はいかにと眺むれば 味方は早くも破られて

八、須磨と明石の浦づたひ 敵の旗のみ打ちなびく
  吹く松風か白波か よせくる波か松風か
  響き響きて聞ゆなり つづみの音に閧の声

九、いかに正季われわれの 命捨つべき時は来ぬ
  死す時死なでながらへば 死するに勝る恥あらん
  太刀の折れなんそれまでは 敵のことごと一方より

十、斬りてすてなん屠りてん 進めすすめと言ひ言ひて
  駆け入るさまの勇ましや 右より敵の寄せくるは
  左の方へと薙ぎ払ひ 左の方より寄せくるは

十一、右の方へと薙ぎ払ふ 前よりよするその敵は
   後ろよりするその敵も 見ては遁さじ遁さじと
   奮ひたたかふ右ひだり とびくる矢数は雨あられ

十二、君の御為と昨日今日 数多の敵に当りしが
   時いたらぬをいかにせん 心ばかりははやれども
   刃は折れぬ矢はつきぬ 馬も倒れぬ兵士も

十三、かしこの家にたどりゆき 共に腹をば切りなんと
   刀を杖に立ちあがる 身には数多の痛矢串
   戸をおしあけて内に入り 共に鎧の紐とけば

十四、緋おどしならぬくれなゐの 血潮したたる小手の上
   心残りはあらずやと 兄のことばに弟は
   これみなかねての覚悟なり 何か嘆かん今さらに

十五、さはいへ悔し願はくは 七度この世に生まれ来て
   憎き敵をば滅ぼさん さなりさなりとうなづきて
   水泡ときえし兄弟の 心も清き湊川
楠公の歌

 楠木正成公は、幕末になると多くの志士たちから尊敬されました。例へば、久留米の水天宮の神官である真木和泉守保臣は「楠子論」を作り、次のやうに考へました。彼は当時、「今楠公」と讃へられた人物です。平泉澄先生のお言葉で紹介しませう。

 楠公の目標は、皇統が断絶しないこと、これをのみ願はれたのであります。皇統さへ絶へることなければ自分は安んじて死んでよい。あとのことは少年正行に委託され、どこまでも賊を討て、一人でも残つておれば賊を討てと言はれたのであります。
平泉澄先生『先哲を仰ぐ』錦正社 所収「楠子論講義」

 そして、平泉先生は次のやうにも言はれます。

 楠公の書かれたものはなく、手紙はありませうが特に書物を書き残さるることなく黙々として道を実践された。その黙々と教へられた事こそ、我々に於て最も貴ぶ所であります。
平泉澄先生『先哲を仰ぐ』錦正社 所収「楠子論講義」

 私の尊敬する福井の国学者にして歌人の橘曙覧先生は、次のやうに詠まれます。

 湊川 御墓の文字は 知らぬ子も 膝折りふせて 嗚呼といふめり

 御墓とは、義公・徳川光圀が建てた「嗚呼忠臣楠子之墓」のことです。「楠子論」にもありますが、氏ではなく子であるところが重要です。孔子や孟子、老子の「子」には先生といふ意味があります。義公も、真木和泉守も、楠木正成公を「子」、つまり孔子や孟子らと同様に先生と見てゐたといふことです。
 また、もう一首。

 一日生きば 一日こころを 大皇の 御ために尽くす 吾が家のかぜ

 この御歌は、上に引用した「楠子論講義」と同じ精神です。真木和泉守と橘曙覧先生が同じやうに楠木正成公を見てゐたといふことです。

 もう一人は佐久良東雄先生です。

 天地の よりあひのきはみ 武士の かがみとなりし 君がいさをは

 あめつちの よりあひのきはみ 顕身の 人のかがみと なれる君かな

天地の果てまでも遠く、偉大な功績を立て、人や武士の鑑となられたと大楠公を讃へてゐるのです。

 おほきみの しこのみたてと みなとがはに たちうちはらふ をのこしのはむ 可奈子

ナダシンの餅

 湊川神社を参拝したら、次は大石駅を目指します。ここにはナダシンの餅本店があります平泉澄先生が『山彦』(勉誠出版)で「うまい物学校」、「うまい物大学」と讃へたお店です。

日本一うまいものを、日本一安く売らう。その為に自分は、朝四時半から起きて働かう、お盆となれば、前晩の九時から働かう、その日作つたものは、その日だけの売物にして、決して前日の売残りの品は売るまい、一人一人のお客を大切にして、決して大口の予約を歓迎しない、石地蔵のやうに町はづれに立つて、みだいりに市の中央繁華街へ進出しようなどとは思はない、店で働く女の子を大切にして、自分のやうに可愛がる。
平泉澄先生『山彦』勉誠出版 所収「うまい物大学」

 なんと素敵なお店でせう。私は、ここの大福が日本で一番好きなのです。おみやげセット十二個入り(九百八十円)を一人ですべて食べてしまひました。本当に美味しいです。美味しいけど、美味しい。
 店内に飾られてゐる色紙には、平泉澄先生の御歌が記されてゐます。この御歌は、包装紙にも描かれてゐます。

 箸とれば 母の味なり なつかしき 明治の香り ほのぼのとして

ナダシンの餅本店
ナダシンの餅本店

菟原処女

 次は古墳を巡ります。かつて、この地には菟原処女といふ女性がゐました。彼女は、二人の男性から求婚され、どちらとも決められず、亡くなりました。男たちも、後に命を断ち亡くなりました。同じ様な話は、関東にも真間の手児奈の物語として知られてゐますね。
 まづは田辺福麻呂の歌。長歌の反歌を二首、紹介しませう。

 古への しのだをとこの 妻問ひし うなひをとめの 奥津城ぞこれ (巻九・一八〇二)
 (昔のしのだをとこが妻問ひをしたうまひをとめのはかであるよ、これは)

 語りつぐ からにもここだ 恋ひしきを 直目に見けむ 古へをとこ (巻九・一八〇三)
 (語り伝へるだけなのだが、こんなにも恋ひしいものを。この恋しさを直接に味はつた昔の男よ)

 次に、高橋虫麻呂の歌を見てみませう。

 葦屋の うなひをとめの 奥津城を 行き来と見れば 哭のみし泣かゆ (巻九・一八一〇)
 (芦屋のうなひおとめの墓を行き帰り見れば、声をあげて泣いてしまふ)

 墓の上の 木の枝靡けり 聞きし如 ちぬをとこにし 寄りにけらしも (巻九・一八一一)
 (墓の上の木の枝が靡いてゐる。聞いたとほり、ちぬをとこにをとめの心は寄つてゐたようだ)

 なほ、大伴家持も、彼らに続いて歌を作つてゐます。
 私は、阪神本線の西灘駅から西求女塚古墳を訪ね、さらに石屋川駅から処女塚、そして住吉駅から東求女塚古墳を訪ねました。真ん中に菟原処女の奥津城を置き、東西に男の墓を置いてゐます。小さな墓でしたが、いにしへびとが激しく恋ひをし、その最中で悩み抜くをとめの姿を見た心地がしました。
 ここからさらに東に向かひます。

「真の日本人」佐久良東雄先生

 さて、大阪に着いてしまひました。大阪では、坐摩神社を参拝します。

坐摩神社
佐久良東雄先生寓居跡

 ここで神職であつた佐久良東雄先生は、平泉澄先生が「真の日本人」と讃へられた人物です。佐久良東雄先生は平泉澄先生が指摘されるやうに、『万葉集』によつて鍛へられた方です。佐久良東雄先生を偲び、私もうやうやしく参拝させていただきました。
 佐久良東雄先生は楠公をとても尊崇されました。息子の石雄に宛てた遺書には、

カナラズモカナラズモ学者ニモ、詩人ニモ、歌ヨミニモ何ニモ、成ント思ふ事、狂人ノ心也。唯唯々々楠正成尊ノ如キ忠臣ニナラウト、一向一心ニ思慮ベシ。思テ修行スベシ。

とあります。学者や歌詠み者にならうなどとは気狂ひである。楠木正成公のやうな忠臣になりなさい、さう思つて日々勤めなさいと諭してをられます。ここに私は、佐久良東雄先生が真の日本人たる所以を見出します。
 平泉澄先生は、佐久良東雄先生について次のやうに書かれてゐます。

 佐久良東雄といふ人は、元来僧侶であつたが、天保十二年三十一歳の春、深く感ずるところあつて慨然として還俗し、純粋日本人たらんことを期したが、その時に名を改めて佐久良東雄といつた。佐久良といふのは即ち桜である。純粋日本精神に立ちかへる時、人は桜の花を想起せずにはゐられないのである。姓にさへ附ける程であるから、従つて東雄には桜の花を詠じた歌が沢山あつて、
 天つ神 いかなるかみの こころより 桜の花は 咲かせそめけむ
 朝日かげ 豊栄のぼる 御宇になりて 桜の花を 咲かせてしがな
などと歌つてゐるが、殊にすぐれてゐるのは、
 事しあらば わが大君の 大御ため 人もかくこそ 散るべかりけれ
といふ一首である。これは桜の花の散るのを見て詠じた歌であるが、花の散り際のいさぎよさを見て感嘆に堪へず、一旦緩急あらば、天皇の御為には、われ等も亦このやうに潔く散つてゆかねばならないと痛感したのである。
平泉澄先生『先哲を仰ぐ』錦正社 所収「武士道の神髄」

 最後に、天王寺駅から天王寺公園に行きます。ここには佐久良東雄先生の加筆があります。字は乃木希典将軍です。

 事しあらば わが大皇の 大御為 人もかくこそ 散るべかりけり

 不幸にも安政の大獄で亡くなられた先生の奥津城は、南千住の回向院にありました。それが明治二年に水戸徳川家の援助を受けて大阪夕陽丘に改葬されました。しかし、そこも勧業博覧会の敷地になるとのことで、明治二十二年にさらに改葬されることとなりました。靖国神社にも合祀されてゐます。この由来は、平泉先生も書かれてゐます。

 私の好きな佐久良東雄先生の御歌を紹介しませう。

 示子歌
 猫ならば 鼠よく取り 犬ならば よく垣守り
 猫と云へば 猫のかがみ 犬といへば 犬のかがみと
 成りてこそ 命は死ね うつそみの 人とあれたる
 わがともは 赤き心を すめら辺に きはめ尽くして
 たぐひなき いさをを立てて 天地の よりあひのきはみ
 あれつがむ 人のかがみと 成りて死ぬべし

 なほ、蛇足でありますが以前、『水戸史学』九十二号に「佐久良東雄の万葉表現」を書かせていただきました。ご興味お有りの方はご一読いただければ幸甚です。佐久良東雄先生がいかに万葉から学んでゐたかを万葉の歌と先生の御歌と並べて考察した作品です。
 そして、先生の御霊は今、安まつてをられるのか。そのことを思ふと残念でなりません。

佐久良東雄先生歌碑 面
佐久良東雄歌碑 裏

 大阪市内の某地で一泊し、翌朝、大阪上本町駅に行きました。ここは今はなくなつてしまつた近鉄の鮮魚列車の終着駅です。数へられる程度の業者さんしかをらず、寂しい感じでしたが、かつては賑はつたのでせう。

鮮魚列車

 この後、私は吉野へと向かひました。
 最後までお読みただき、ありがたうございました。

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