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成る事と在る事

私は自分をすべてとして認識してます。

子供の頃からそうでしたが、

それを表現する言葉は知りませんでした。

すべてで在るとは、

"世界のなかに自分がいる"のではなく、

"自分のなかにすべてがある"ような感じです。

一人の人間である"自分"や"私"という感覚と、

"自分"や"私"はない、すべてで在るがミックスされた状態で生きています。

ただ在るだけの私は、

出会う人すべてが自分の一側面であり、

目の前のすべては自分の内側の現れとして眺めてます。

例えば友人通しが話してる時、

二人を自分として観て、

私と私が話してるように眺めてみると面白い気づきがあります。

優しい私が、疲れた私を癒やしていたり、

真面目な私が、わがままな私を羨ましく感じていたり、

友人が寂しそうに話しかけてきたら、

寂しい私の話しを聞きます。

私が私の話しを聞くように、

寂しがりやの私は、私に何を伝えたがってるかな?と。

色んな形で現れてる私に出会い、

無限の豊かさを感じたり、

まだ何にも成っていない赤ちゃんに出会い、

純粋な私をありがたく眺めたり、

それは相手やコミュニケーションに無関心な訳ではなく、

私なりの純粋な愛し方や貢献であり、

共感し寄り添うことを楽しむこともあります。

世界のすべてが自分であり、

自分の内側にすべてがあります。

自分の内側は無限の可能性であり、

自分が観じることが目の前の世界に現れます。

私は透明ですべてに成ることができます。

大きな喜びに成ることも、

深い悲しみに成ることも、

豊かに成ることも、

貧しく成ることも、

子供に成ることも、

年寄りに成ることも、

鳥に成ることも、

風に成ることもできます。

何にでも成れるけど、

そのすべてが私ではなく、

何かを演じ続けることはできません。

どのような視点で何にフォーカスするかで、

すべてを自由に体験できます。

何でも成れて、現実を自由にクリエイトする能動的な力と、

宇宙の流れにお任せする受容的な力が、

吐く息と吸う息の呼吸ように訪れます。

受容的な力を現すには、

ただ在り、くつろぐことで、

心地好い流れが自然に生まれます。

あらゆるコントロールを手放して、

すべてをただ在るものとして観ると、

すべてが純化して、

自然な在り方や流れへもどります。

良いも悪いもなく、

ただ在るものは純粋で美しいです。

宇宙の大きな流れを観じながら、

心地好く身を委ねて、

一瞬一瞬純粋な現れとして存在し、

奇跡の連続を生きています。


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