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中学校で出会う先生で、人生は変わるかもしれない


私には親友と呼べる友人が少なくとも3人いる。そのうち2人は中学のクラスメイトで、もう1人の親友もその2人を通して出会った友だ。多感な時期の私たちの出会いは、その後の人生を支えてくれた。私たちは出会えてラッキーだったと、皆が口を揃えて言う。もしあの時に出会えなければ、それぞれの人生は今と違っていただろう。でも、それは本当に偶然の出来事だったのか。大人になって振り返ると、数々の疑問がよぎる。

W先生がいたから、私たちの「今」があるのではないか。

大人になってあの頃を振り返るたびに、それは確信めいたものになっていく。私たちは大人の大きな愛に見守られていたんだと、大人になってからようやく気がついた。

転校生、副級長になる

中学2年の進級時、両親の離婚を機に転校した。1学年2クラスしかない山間の小中学校から、1学年9クラスもある県下一のヤンキー校へ。この転校は私に大きなカルチャーショックをもたらした。
転校初日も暗い気分のままだったが、そんな私の心情を見抜いていたのか、担任教諭は教室に向かう前にさらりとこう言った。

「おまえと同じような家庭環境のやつはクラスに何人もいるから安心しろ」

すっかり悲劇のヒロインに浸っていた私はその言葉に面食らった。

全校生徒数も多かったが、ひとり親家庭の生徒の割合も高かった。転校前の学校では親が離婚している者は1%にも満たず周囲の目も厳しかったが、転校先には1クラスに5~6人はひとり親家庭の子がいる。ひとり親でなくても複雑な家庭の子供がわんさかいたが、どんな家庭環境の生徒もカテゴライズされることなく横並びで過ごしている。この事実が私には衝撃的で、担任がかけた最初の言葉は「どうして私だけがこんな辛い目に…」という拗ねた気持ちを吹き飛ばした。悲劇のヒロインという居心地のいい逃げ道を瞬時に取り上げられたのだ。

W先生は副級長を呼び、学校を案内するように指示した。ちょっと背が高くてボーイッシュ、メガネをかけた、いかにも優等生らしい雰囲気の彼女だったが、話してみると気さくで明るく、皆んなに慕われていた。学校を案内し終えて教室に戻ると、私のニックネームをつけようと彼女が言い出した。私の名前はカナコ。
「でも隣のクラスに『かなこちゃん』と呼ばれている子がいるから、違う方がいいね。そうね、『かこ』はどう?『かこ』に決まりね!」
 彼女がそう言うと、周りの女子たちも、
「オッケー!かこ、よろしくね!」
「かこ!私は〇〇って呼んでや!」
と一斉に声をかけてくれた。

その副級長の女の子は後年、勝手にニックネームをつけたことを申し訳なかったと言っていたが、私は今でも感謝している。周囲からの信頼が厚い彼女が呼び名を決めたことで、私はクラスにすぐに馴染むことができた。

クラス替えのタイミングで転校したことも幸いし、1学期が終わる頃には元来の明るい性格を取り戻して楽しい学校生活を送るようになっていた。成績も上位に戻り、2学期になるとW先生の指名で副級長になった。そしてW先生は初仕事を私に命じた。

「転校生が来るから、皆んなより先に紹介する。お前と同じように両親が離婚したばかりの奴だ。気持ちが分かるやろ?お前が最初の友達になれ」

似た境遇の女の子

W先生は私たちを引き合わせると、
いきなりそれぞれの家庭環境を説明した。

「お前ら、似たような経験してるんだから分かり合えるぞ。
 友達になれ、仲良くしろ。学校を案内してやれ」

その強引さに唖然としている私たちを残し、W先生はさっさとその場を去った。目の前にいるのは、地味なメガネ姿の私とは正反対の、顔は可愛いけれど前髪が茶髪のツインテールの女の子。私は少し機嫌が悪そうな彼女の冷めた目に気づかないふりをしながら、張り切って校内を案内した。これが私とR子の出会いだった。

「自分と同じ理由で3ヶ月前に転校してきた子が2学期にはもう副級長をやっている。かなこに会う前にW先生からそう聞かされてすごく驚いたし、プレッシャーだった」

R子はあの日をそう振り返る。彼女はそういう形でW先生に「悲劇のヒロイン」の芽を摘まれていた

感情をすぐ表に出す私と、感情を人にみせないクールなR子。私たちは水と油のような性格だが、W先生によって互いの家庭環境を明かされたことを機に他の友達には話せない悩みを打ち明けるようになった。そしてもう1人、R子の家の近所に住むクラスメイトSが一緒に学校に通うようになり、2人は親しくなった。その過程にもW先生が関わっていそうだが私は知らない。いつしかR子とS、私3人は仲間となり、あれから33年、家族や親戚のような関係が今も続いている。

自分の力ではどうすることも出来ない大人の事情に潰されそうだった思春期。それでも悲劇のヒロインにならず、1人で抱え込まず、共に悩み励まし合える友人に出会えたことで、私たちは大きく道を外れずに人生を歩むことができた。もしあの時、W先生が私とR子を引き合わせていなかったら、私たちの人生は今よりも良くない方向に進んでいたに違いない。私たちは今も時々、そんな話をする。

先生、もういいよ

W先生は30代で独身。美人なのに口が悪く、お局様キャラでしかめ面をした国語の先生だった。けれど生徒を叱っても後に引きずらないサバサバした性格で、授業はとても分かりやすかった。

私が転校してすぐのこと。ある朝、教室に入るなりW先生は無言で黒板いっぱいに大きな字を書いた。難しい漢字2文字、その読み仮名を書き加えて興奮気味にこう言った。

「結婚、しーまーすー。この名前になります!」

教室はどよめき拍手が起こったが、私は鬼気迫る先生の表情に呆気に取られたことを覚えている。万事がそんな感じ。厳しくてユニークで個性的で、ちょっと変な先生だけど、不思議と嫌いじゃない。そんな先生が担任したクラスは、学年一、仲の良いクラスになった。

R子との出会いのほかにも、忘れられないW先生の思い出がある。なかでも強烈に覚えているのは、怒りに満ちたW先生の横顔だ。中学2年の時、市が主催する英語コンクールがあった。作文コンテストで市内から12名を選抜し、さらに1泊2日の英語合宿で選考会を行い、2名だけがアメリカの姉妹都市に短期ステイできるという事業だった。当時の夢は海外留学だったが、母子家庭のため半ば諦めていたことをW先生は見抜いていたのだろう。いきなり私を呼び出して、
「お前なら行ける!とにかく気持ちを作文に書いてこい!」
と、唐突に作文課題を突きつけた。

よく分からないまま作文を書いて提出したが、W先生は私の作文を読んでも笑顔ひとつ作らず、さほど添削もしれくれず、拍子抜けしたことを覚えている。ともあれ、その作文は一次選考を通過し、私は英語合宿に参加することとなった。

合宿では厳しい英語カリキュラムを課せられたが、市内の中学校から集まった優秀な生徒たちとの交流やディベートは刺激的で、私の向学心を大いにつついた。しかし、市内の全中学生から選ばれるのはたった2名の狭き門。英語には自信があったがライバルが3人いた。選ばれる可能性は五分五分、祈るような気持ちで選考結果を待った。

しかし経済団体共催のその事業は蓋を開けてみれば出来レースで、英語力が最も低くやる気もなさそうな生徒2名が選ばれた。その2人は地元有名企業の子女子息で、初めから選考結果は決まっていたのだ。ライバルとして切磋琢磨し合った他校の生徒たちと共にうなだれ、納得がいかない気持ちを通り越し唖然と立ち尽くした。懸命に取り組んだだけに失意は大きく、言いようのない失望を抱えて学校に戻った。

その結果を知った時のW先生の横顔を今でも覚えている。

「こんな汚いことに子供たちを巻き込むなんて、絶対に許せん!汚いことをしやがって!ばかやろう!あってはならんことや、抗議してきてやるで待ってろ!!」

W先生は私と2人きりの教室で、鬼の形相で吠えまくり机を叩いた。虚しさにあふれ悔し涙すら出ないほど悲しかったはずなのに、W先生が全身で怒る姿を見ていたら私の気持ちは少しずつ晴れていった。

「先生、もういいよ。私、大丈夫だから」

社会は汚い。けれど汚い大人ばかりじゃない。自分のためにこんなに必死で怒ってくれる公平な大人も世の中にはいる。そう思った途端に張り詰めていた気持ちがゆるみ、涙を流すことができた。

「先生、ありがとう。もういいよ」

W先生が怒ってくれたから、もういいや。さっぱり忘れよう。先生が自分のことのように怒ってくれて、その姿を見せてくれたことで私は救われた。

私とY子の将来

3年になると別の教師が担任となり、W先生は急に私たちに冷たくなった。理由が分からないまま新学期が始まったある日、私はW先生に呼び止められた。

「おまえの奨学金を取ったからな!安心して高校に行け!」

その時はなんのことか分からなかったが、母子家庭の生徒だけが受けられる奨学金に推薦してくれていたようで、クラスメイトのY子と私の2人だけが学校でその奨学金を獲得したことを後に知った。私たちのクラスで、母子家庭の生徒を成績順で並べると私とY子が上位2人。おそらくW先生はこの2人が奨学金を取れるように2年次から動いてくれていたのだろう。狭き門だったはずだが、その少ない枠を教え子のために引き寄せてくれていたのだ。おかげで私もY子も同じ高校に進学し、学費を奨学金で賄うことができた。あの時、W先生はカッカッカと笑いながらパッと去って行った。まるで担任の最後の置き土産のように感じたことを、鮮明に覚えている。常に生徒の未来に手を差し伸べていたW先生には、感謝してもしきれない。

W先生の手のひらの上

転校時、私にニックネームをつけたK子とは同じ高校に進学し、今でも交流が続いている。今年の夏、K子を含む高校同級生と4人で会うことになった。そのうちの1人はあの英語合宿で出会った友人で、まともに選考されていたなら彼がトップだったに違いない優秀な人だった。あの出来レースは悔しかったよねなんて話から、その夜、私とK子はW先生の思い出話に花を咲かせた。私やR子が転校した時のこと、英語合宿のこと、一つひとつ振り返っているとK子はハッとしたように声をあげた。

「同じクラスに立て続けに転校生が来るなんて、そもそもあり得ないよ!」

K子は大学卒業後、民間企業に就職したが、転職して今は県外の公立中学校で教員の仕事に就いている。中学生の時の教師という夢を再び追いかけ実現させた彼女にとって、W先生は今も良きお手本だ。そのW先生の当時の思い出を教員という立場で振り返ると、普通は考えられないことが多いという。

そもそも転校生は教員にとって負担が大きいため、同じクラスに1学期、2学期と立て続けに入ることはなく、ましてや似た家庭環境の生徒ならなおさら。そのため私とR子が同じクラスになったのは偶然とは考えにくい。考えられる理由はただひとつ、W先生が自ら転入生の受け入れを名乗り出たのではないか。似た家庭環境の2人を同じクラスにするために、あえてW先生は手を挙げたのではないか。これがK子の見解だった。

そうなると私とR子は、出会いからW先生に仕組まれていたことになる。偶然ではなく、W先生が作った必然だったのだ。なんていうことだろう。あの出会いが私たちにもたらした数々の救い、それはW先生が手を差し伸べてくれたことから始まっていたとは。私は言葉にならない驚きと感動で胸がいっぱいになった。

「もしかしたら、かなこ以外にも皆んなそれぞれにW先生の思い出があるのかもしれない。そういえば思い出したことがある」と、K子は記憶をたどりながら話してくれた。

成績優秀でクールだった男子生徒が一度だけ、顔を真っ赤にして怒ったことがあった。いつも冷静で大人びていた彼は、ある日、W先生の指名で保健係に任命された。当時の保健係といえば検便・検尿を集めるのが仕事だったので誰もなりたがらず、ましてやクールで男前な彼には縁遠い役目だった。それをW先生が強制的に任命したので彼は顔を真っ赤にして「ふざけるな!」と声を荒げた。彼は大人びていて、周囲を寄せ付けないプライドの持ち主だったが、保健係に任命することでW先生はそのプライドを一度崩そうとしたのではないかというのがK子の分析だ。確かに、彼が教室で感情を表に出したのはそれが初めてのことだった。あの日をきっかけに、彼は少し周囲との距離を縮めることができたのではないか。

彼だけではない。あの子もあいつも、ヤンキーも優等生も、W先生の前では生意気なりに子供らしい顔を見せていた。複雑な環境で育った生徒がたくさんいたのに、誰もW先生を嫌っていなかった。クラスの誰もがどこか憎めない人間性を持ち、私たちは学年で一番仲の良いクラスになった。それはもしかしたらW先生に皆が救われてきたからなのかもしれない。

3年になると担任が変わり、W先生は私たちを急に突き放した。新しい担任はW先生とは正反対の杓子定規なタイプだったので、私は大嫌いだった。それだけにW先生が私たちを突き放したことが悲しかった。

「2年生を担任したら、大抵の場合は卒業まで受け持ちたいもの。それが急に変わったのには理由があったはずだよ。先生の年齢を考えると、結婚し出産を望むなら早いに越したことはない。女性としてのライフプランを考えて、3年の途中で産休に入るくらいなら私たちに迷惑がかからない時期にと自ら担任を降りたのかもしれない

現役教師のK子だからこそ見えることがある。W先生が急に担任を降りた理由が、今やっと分かった。先生は、私たちへの影響を最小限に留めたかったのだ。それに気づくまでに随分と時間がかかったが、K子と私は確信した。なんていう教師だろう。なんて素晴らしい教育者だろう。私たちはなんて温かい愛情に包まれていたんだろう。

私たちの学校は市内一、荒れた学校として知られていたが、当時は学校改革のために優秀な教師が集められていた。そのため校風は厳しく、やがて私たちの学年は県下一の学力トップ校となった。この時期に転校できたことは、私にとって幸運だった。社会の縮図のような生徒の層の厚さ、志の高い教員たち、風変わりな担任教師。バブル経済が弾けた時代、私たちはたくさんの大人に守られながら、県下一のヤンキー校から県下一の頭のいい学校へと変貌を遂げたのだ。

K子と語り合っているうちに、気がつけば深夜になっていた。まるで学生時代に帰ったような時間の経過に笑いながら、彼女と別れた。帰り道、車を走らせていると涙があふれてきて、温かい気持ちに包まれた。あの頃、私たちは間違いなくW先生の優しさに守られていたのだ。

「先生!W先生、ありがとうございました!」

ハンドルを握りながら、私はひとり、清々しく満ち足りた気持ちで何度もお礼の言葉を口にした。


W先生からのバトン

K子は中学生の時、学校の先生になりたいと言っていた。そして彼女はいま、夢を叶えて教員の仕事をしている。彼女は優等生だったが個性的でユニークな生徒だった。真面目なのだが突拍子もないところがあり天真爛漫。中学時代はリーダー的存在で、いま思い返せば教室に楽しいことを持ち込むのはいつも彼女だった。

例えば合唱コンクール。彼女は二本のビデオテープを教室に持ち込み、とにかく歌が素晴らしいから皆んなで見たいと興奮気味に提案した。それはアメリカ映画「ウエストサイドストーリー」のビデオだった。訳のわからないまま私たちはそのビデオを鑑賞し、K子の熱にほだされて映画の劇中歌を歌うことになった。他のクラスは合唱の定番曲ばかり。それなのに私たちは映画のテーマ曲、しかも英語!アルファベットさえも危うげな生徒が多いのに、英語曲を2曲も歌うことになったのだ。

勉強に興味のない生徒にとってはいい迷惑だが、そこはK子のキャラクターのなせるところ。K子が提案するなら頑張ってやってみようじゃないかと、生真面目な子もヤンキーも誰も文句を言わず、楽しんで練習に励んだ。とはいえ、簡単な英語も読めない生徒が何人もいる。そこでK子は譜面の英語にフリガナをつけ、一人ひとり丁寧に英語を指導し、音楽教諭に頼んでアルトパートを新たに作り合唱曲に仕上げていった。

彼女は英語歌詞の意味を解説し、どう感情を込めて歌うかまでをレクチャーした。普通じゃない曲、普通じゃない練習。ありきたりの合唱コンクールが面白いエンターテイメントに変わり、クラスが一丸となって英語の歌を熱唱した。譜面を持ち込んではいけない合唱コンクールだったが、私たちのクラスだけが英語譜面を持ち込み、なぜか皆んな得意げに笑っていた。結果、最優秀賞は逃したが、間違いなく私たちのクラスが最も合唱コンクールを楽しんだクラスとなった。後にも先にも、あんな楽しい合唱コンクールはなかった。

美人なのに個性的で突拍子がなく、それでいて心あたたかな国語教師。少女のようなK子の純粋さは、W先生の個性にどこか似ている。私たちのクラスで唯一、教員に就いたのがK子だ。それも何かの縁、いや、W先生の影響なのかもしれない。

私たちが中学生だった頃よりも、現代は子供たちにとって過酷な時代となった。私たちがW先生に救われたように、1人でも多くの子どもがK子に出会って救われることを願っている。そう思えることが、私に希望と喜びをもたらしてくれた。W先生の精神を継ぐのはK子だ。あの頃のストーリーにはまだ続きがあったんだ。

W先生の思い出の掘り起こしは、私の人生にとって大きなものとなった。身内ではない他人であっても、大人がしっかりと愛を持って接すれば、やがてそれは子供に伝わり、人生を救うことになる。私たち大人は皆んな、どんな境遇で育ったとしても、どこかで誰かの愛を受けて生きてきたんだ。そう思えたことがこれからの生きる糧になるし、私自身も次世代に少しでも多くの愛を渡していきたい。それがW先生から受け取ったバトンだと思っている。40代半ばでようやく気がつくことができた。私たちが子供たちにできること、教職につかずとも出来ることはきっとあるはずだ。そう思えることが、未来を明るくする。

W 先生、お元気ですか?
あの頃は、本当にありがとうございました。


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