「視える人に視てもらう自分」からの卒業
寒い日が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。春にはまだ早いですが、今日は、ある方が今までの自分を卒業された物語について書きます。
視える人ではないけれど
私は12月からお茶会を始めた。申し込んで頂いた方に希望テーマを伺い、そのことについて話をする会である。
その中で、ある方から「自分についている神様が何を言っているのか、教えてください」と言われた。霊視のようなイメージなのだろう。
以前の連載で、神様からメッセージを受け取ったり、不思議な体験をしたりしたことを書いた。その影響もあり、このようなことは時折言われる。
正直なところ、私にそのような能力はない。いわゆる「視える人」ではないのである(多分)。
だが、その方に何を言ったら良いのか、予め分かることはある。
お茶会のトップバッターの方がそうだった。
視える人に自分のことを聞く人
その方は、私のnoteをフォローしてくださっている。何度か記事を拝読し、コメントのやり取りをしたこともあったと思う。
だが、お茶会に申し込んで頂いた時、「確か神社が好きな東大出身の方だっただろうか」というぐらいの記憶しかなかった(すみません!)。
ところが、その瞬間、「脱メンター」という言葉が浮かんだ。
「私はこのことを彼女に言うことになるのだろうな」と思ったのである。
この直感が正しいのかを確かめるため、彼女の記事を漁った。
本当にメンターにかかっているのか。
彼女にとってのメンターとは何か。
そもそも、メンターという言葉の意味は広い。指導者とか助言者という意味で使われることも多く、私にはこちらの方が馴染みがあったのだ。
だが、彼女の場合は違っていた。
視える人に、結婚、転職など、さまざまなことを相談に行っている方だったのである。
卒業の刻
お茶会が始まった。画面越しに、華やかで美しい女性の姿が見える。
彼女は、あるメンターの元に10年以上通っているのだと話してくれた。
「依存しているつもりはない」
その言葉を短い間に何度も繰り返す。
私自身に、そのこと自体を否定する気持ちはない。助けになる方も大勢いるとは思う。批判的なことは何も言っていないはずである。
それなのに、同じ言葉を繰り返す姿は、今までの自分を一生懸命守ろうとされているように見えた。
私は「脱メンター」というテーマを初めから伝えるのか、決めていなかった。今回は伝えないかもしれないと思っていたのだ。
実際、モニターとして半年近くお茶会に参加頂いている方には、まだ伝えていない。人それぞれ、タイミングというものがあると思うからである。
だが、彼女には結局伝えた。
「もう卒業の刻だ」
「今、お伝えした方が良い」
瞬間的にそう思ったのである。
本当は自分でもわかっている
その後の彼女は、自分に深く向き合い、驚くほどのスピードで変化している。今までの自分を卒業し、新しい自分を楽しみながら見つけているのだ。
それは、私のお陰というよりも、本当はご自分でも心の奥底でわかっていたことなのだと思う。
お茶会の後半でも、「『私いつまで(メンターのところへ)行くんだろう』と薄々思っていた」と話してくれた、ぽたまるさん。
とある記事のコメントで、
「今、書くことで自分の本質を削り出しているみたいで、それが楽しくてたまらないんです!お茶会というきっかけに感謝」
と書いてくださった。
本当は、微かな違和感の中に、自分を変えるヒントが隠されているのかもしれない。
★お茶会の顛末は、ぽたまるさんの記事をぜひご覧ください。
★その後エルメスに行かれた話も、面白いです。多くの方に読まれている模様。
★その後日談。前編・後編とあります(さらに続く模様)
おわり
★お茶会を随時開催中!ぜひご参加ください。
フォロワーの皆さまとのお茶代にいたします。ぜひお話ししましょう!