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学校は誰が何をする場所ですか?

私の教室で、エッセイを書いてくれた子がいます。WritingWorkshopの授業です。

夏休み明けが近い。学校再開を目前にした今、本人の許諾の元、ここに公開したいと思います。

生徒エッセイ 「その平等でいいの?」

 義務…当然しなければならないことがら。
 権利…自分の意思で自由に行動を決めることができて、他から侵されてはならないものごと。


 私たち中学生の手の中にあるのは「学ぶ権利」。でも、親の肩にのしかかっているのは「義務」という言葉。教育を受けさせることは「義務」。でも、学ぶことは「権利」。私には「義務」と「権利」の境界線がボヤけて見えるのは何でだろう?


 黒板を見て、俯いて、ノートにメモをとる。また顔を上げ、決められた課題、揺らぐことのない文章をただ書き続ける。つまらない?
頭に入ってこない?そんなことを言っても変わるのは他人の目つきだけ。


 日本の学校は「平等」にしつこいほど忠実だ。そもそも平等とは「差別したり差をつけたりしないで、みんな同じであること」。

 差別せずに暮らしていけるなら、それはそれでいい。でも、今、注目してほしいのは「みんな同じであること」。


 周囲を見渡してみると真実は目の前にある。誰として同じ人はいない。見た目も、運動能力も、才能も、特技も、IQだって、学習意欲だって、性格だって、全部、全員、違う。誰一人として同じ考えを持っている人はいない(クローンでない限りは、ですけど。クローンだったら、まあ、納得)。
 ならば、勉強の仕方が違ったって別に不思議ではないはずだ。


 でも。でも現実を見てみようじゃないか。ただ一度として、自分に適切で、完璧で、最高の教え方をしてくれた人はいただろうか?一発でテストの満点を取れるような授業をしてくれた先生は存在しただろうか?答えは「NО」だ。ある一人にとっての「分かりやすい説明」は、もう一人にとっての「ちんぷんかんぷんな説明」でしかない。


 そう考えると、テストの成績なんてとてもじゃないけれど、あてにならないのかもしれない。  
 一人一人の「分かりやすい」が違うから。 
 ただ、この人だけ暗記が得意だったから。 
 教え方がその人に合っていなかったから。


 日本の「平等」に話を戻そう。「差別したり、差をつけたりしないで、みんな同じであること」。これは次の三つで見事にひっくり返らないだろうか。
 1 人は同じではない。
 2 同じだと思うから「差」がつく。
 3 差がついて、差別される。


 日本の学校はロボット工場ではない。高齢化が進む中で、次の世代に同じ過ちをさせないための大切な学びの場が、学校だ。
 日本の「平等」への見方・考え方は見直された方がいいだろう。

エッセイから伝わる想い

 この生徒は「人はみな違っている」という視点をしっかりもっています。その違いに応じた学びを求めています。同じ時に同じことを同じ条件で学ぶことが平等だというのは欺瞞であり、つまらないと感じています。

 「人はみな違っている」のだから、違いに応じた学びでなければ、今のシステムにたまたま一致した者が勝者になって当然だし、今の方法では当然差がつくだろうと言っています。 

 一見「平等」に見える学校の授業やテストは、多様性を無視したロボット工場のようだという痛烈な批判を浴びせています。

 この生徒は気づいています。「平等」と「公正」の違いに。みんなロボットではない。違いがあって当たり前。違いを受け止めて、関係を作って、それぞれが力をつけていく場としての学校を求めています。テストの点数で序列をつけ、子どもを値踏みすることは教育なのか、と問うているようです。多様性に対応することで、差別のない、それぞれが生きやすく、楽しい学びの場を得られるのではないかと中学生が訴えているのです。

「その平等でいいの?」にどう答えますか?

 コロナ禍で、今年ほど『学ぶ権利』に注目した年もなかなかないでしょう。遅れた授業はどうなるのか、教科書は終わるのか、テストはどうなるのか、etc…。

 コロナ禍によって、俄然、注目を浴びるICT導入。まさに、GIGAスクール構想は「平等」を「公正」に導く可能性を秘めています。

 GIGAスクールの「GIGA」は、ギガバイトの「GIGA」ではありません。

「Global and Innovation Gateway for All」の略です。これは「すべての人にグローバルで革新的な入り口を」という意味であり、「誰一人取り残すことなく子どもたち一人ひとりに個別最適化され、創造性を育む教育ICT環境の実現」を目指す施策であるとのこと。

 コロナ禍という大きな風によって、教育界に、想定外の速さでICTが導入されます。まるで「黒船来航」です。ICT導入にチョークを振り回して抗っても、もはや時代の流れは止められない。明治以来、変わることのなかったこの国の学校と授業は、今、大きくその姿を変えることを求められています。

 学校教育は、教科書を終えることが目的なのでしょうか。子どもたちが、それぞれ自分らしく社会に貢献でき、幸せをつかむことができるように、彼らに知識とスキルを身に付けてもらい、世界を理解したり、生きていく中で価値を見出したり、意味を作り出す力をつけることこそ、本筋ではないでしょうか。

 学校は、子どもたちが楽しく、公正に、必要な知識やスキルを学び、世界を理解できる場所。

『日本の「平等」への見方・考え方は見直された方がいいだろう。』という中学生の声は、すでに教師の知識、スキル、理解を超えている最新の感覚ではないでしょうか。

 「その平等でいいの?」に、あなたは、どう答えますか?


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