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明日も、あなたの話をわかるまできいていたい。

しごとのひとつである、こども園での勤務の最終日。

健康上の理由で、予期せず短い期間になってしまったのだけど、こんなに短期間でも、歩くようになった子、お話がじょうずになった子、他者との関わりが豊かになった子がいて、1人の人間の世界の広がりの瞬間をみせていただけたこと、とても尊く、嬉しい。

うまれてからの1年間、人はゆらゆらとゆらぐけど、1歳の時点で一生の起点となる「その人らしさ」はすでに、ほとんど確固たるものになっている、のかも。
泣いている人がいたら、いい子いい子しにきたり、好きそうなものをどうぞしにきたり、穢れのないgiveの感覚をもっている、のかも。
人は生きていく中で忘れていってしまうそれらを、ただ思い出すことができれば幸せになれるのではないか?
そういう大小様々な宝物のような気づきを、毎日毎日発見しては、あたたかいのに胸を突ん裂くような愛おしさに襲われた。

前日の夜には「明日みんなと会えるの楽しみだなあ」と思えて、仕事おわりにはふいに今日の出来事を思い出して。そんな日々を味わっていた。

当初の目的を超えて、私は子どもたちのことが想定していた以上に好きだということ、そして私のテーマである「まち」を子どもから感じることができるということがわかったから、身体がちゃんと元気になったら、たぶん一生、保育士としてのしごとは手放さないんじゃないかとすら思ってます。たぶん。

でもね、ここまで冷静を装って書いてきたけど、めちゃくちゃ寂しい。
もう会える明日を楽しみにできないなんて、つらすぎる。
この文章からだだ漏れているとは思うけど、私はもう、彼らのことが大好きなんだよ!!!!!!!
明日も、あなたの話をわかるまでききたい。
明日も、身体じゅうに溢れそうな感情を受け止めたい。

子どもと関わるようになった大学生の時から増え続けている、歳をとらないあの子の姿が、また胸の中に宿った。
たまに、ふっとその中の誰かさんの姿が思い浮かぶことがある。
その時は、きっとその子が何かを頑張ってるとき、もう頑張れなくなってしまったとき、とかなのかなあと思って、指折りその子の今の歳を計算して、「私は今でも、あなたの味方」「生きていれば、また会える」と想いを馳せるようにしている。

だからね、また、ね。

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