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障害のある親として「ヤングケアラー問題」に思うこと

障害者が子どもを持つことが話題にのぼるとき、しばしば「ヤングケアラー」というワードが取り沙汰されます。

ヤングケアラーとは、一般に、本来大人が担うと想定されている家事や家族の世話などを日常的に行っている子どもとされています。

以前、遺伝性疾患がある私の妊娠出産に関する記事が出たときも、コメント欄には「病気が遺伝しなかったら、子どもに介護させるのか」「子どもは生まれてから介護生活だ」という声が多く見られました。

もちろん可愛い子どもに自分の介護をさせるつもりは一切ありません。ここで私の考えをまとめておきます。

「親が障害者=子どもはヤングケアラー」とは限らない

まず、ヤングケアラーについて、言葉ばかりが先行しがちですが、問題とその原因を正しく理解する必要があると思います。

ヤングケアラーに関する記事や行政の動きを見ると、現状では実態の把握やヤングケアラーをどう福祉制度につなげるかという課題がメインです。一方で、親が障害者であること自体が問題視されているわけではありません。

ヤングケアラー問題の本質は、親が介護の必要な障害者であることではなく、親、周囲、本人がヤングケアラー状態であることに気づかず、年齢相応の生活を送れていないことが問題なのです。


誤解を生む広告

以前、ACジャパンからこのようなCMが放送されました。

このCMを見たとき、「親が障害者=子どもはヤングケアラー」というイメージはこのような広告の仕方によって作られるのではないかと思いました。

非常に印象に残るCMですが、感情に訴えかけるだけで「何が問題なのか」「どうすれば良いのか」が抜け落ちています。

ヤングケアラーについて初めて知った人がこれを見て「ああ、なんて深刻な問題なんだ」と怒りや悲しみを抱いたとき、その矛先はどこに向かうのでしょう?この、病気療養中の母親に向ける人がいることは容易に想像できました。

声を上げられない子どもや、自分がヤングケアラーであることに気づかない子どもがいることは事実であり、こうして広く知らせることは必要であると私も思います。SNSでもたびたび話題に上がり、多くのケアラーが声を上げます。とても大切なことです。

しかし「ヤングケアラー」という言葉が誤解され、障害者の子どもを持つ選択を否定するものとして使われているコメントも毎回のようについており、胸を痛めています。ヤングケアラーについて語る際には、こういった誤解を生まないための配慮も必要だと感じています。

家族間において「介護」か否かの境目は曖昧で流動的

私は結婚した当初、「絶対に夫に介護はさせたくない」と息巻いていました。結婚して2年以上が過ぎ、家族間においての「介護」と呼ばれる行動はけっこう複雑だなと感じています。

ハタから見るとそれは「介護」かもしれないが、私と夫にとっては楽しい時間だったりする、ということです。

私が夫に髪を乾かしてもらうことはハタからみれば「介護」かもしれません。
けれど二人の間では「スキンシップ」や「コミュニケーション」。
しかし、そこに夫が負担を感じれば「介護」になる。

「介護」か否かの境目は、想像以上に曖昧で、流動的なのです。

「〇〇を手伝ってもらっていたら介護」ではなく、介護かどうかはその家族のメンタリティによるのだと思います。

例えば、夫が疲れていたり、乗り気じゃなかったり。はたまた、手助けを受けるときに冗談を言ったりする余裕がなくなったとき。「スキンシップ」や「コミュニケーション」だったそれは「介護」になるのでしょう。

(事実、子育てが始まってからお互いの余裕がなくなり、私の髪はヘルパーさんに乾かしてもらうことになりました。)

障害のある親として考えていきたいこと

これは想像の域を超えませんが、ヤングケアラーの中には「お父さん/お母さん/きょうだいのために」と思って最初は積極的にしていた「お手伝い」が、いつの間にか「介護」になり、苦しい状況に陥っているというケースもあるかもしれません。

また、子どもであれば、苦しさを自覚できずただ消耗している状況もあるのではないでしょうか。

私は子どもに介護をさせるつもりは一切ありません。ただ子どもの発達過程において現れる「誰かの役に立ちたい」という欲求を跳ね除ることはしたくないなと思っています。

親として注意しておきたいなと思うのは、家族としての助け合いが気づかないうちに子どもをヤングケアラーにしている状況があるのかもしれない、ということです。

それを防ぐのは子どもの権利について学んでおくことや、子どものしんどさを的確にキャッチすることなのだろうと思います。

加えて、子どもの心理的負担にならないことを私は大切にしたいです。

以前、結婚生活に関するnoteで、夫に対して「あなたの手助けがなくても生きていけるのよ」というスタンスでいたい、と書いたことがあります。お互いが苦しくならないためです。

これは子どもに対しても同じで、「お母さんは病気でいつも苦労しているから、私が助けなきゃ。」とは感じさせないことが、子どもの心理的負担にならないための一つの方法になるのかもしれません。

障害による大変なことは常に問題解決をして、今まで通り明るくお気楽な妻・母親であり続けること、おそらくこれは今後も家族と私を守るのだろうと感じています。

「親の介護は子どもがするもの」という思い込み

冒頭にも書いた「病気が遺伝しなかったら、子どもに介護させるのか」「子どもは生まれてから介護生活だ」というネットのコメントの裏側には、「親の介護は子どもがするもの」「家族の介護は家族がするもの」という思い込みがあります。

事実、子どもを産んでから「女の子なら将来助けてもらえるね」と言われたことが何度もあります。

まだ赤ちゃんの子どもに向かって、何の悪気もなく「将来ママを助けるんだよ」と声をかけられたこともありました。

おそらくこうした思い込みによる言葉は、今後の子どもの人生で幾度となくかけられるのだと予測しています。

私はその度に否定しますし、そういった周囲からかけられる声を安易に内面化してしまわないように子どもを育てたいと考えています。「周りはこう言っているけど自分は違うと思う」と自覚できる力を子どもが身につけていくには、どのように子育てしていけば良いのかを模索していきます。

障害のある親も多くの親と同じ

多くの親と同じように、私たちも子どもに負担をかけたくなく、年相応に育てて養っていけるよう見通しを立てて子どもを持つ決断をしました。

ヤングケアラーという言葉が誤解され、障害者の子どもを持つ選択を否定する理由として使われている現状が変わっていきますように。



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