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その時はわからなくても

こんにちは。きっかけアクセサリー作家の、音海奏乃です。

今日は金曜日。音海奏乃が思ったり、考えたりしたことをつづっていく、かなのわーずの日。

さて、みなさんには今、取り組んでいることはありますか? 自分でやりたくて取り組んでいることも、壁に当たります。やりたくないことでも、やらないと打開できない時もあります。

今回は、介護しているなかで気が付いたことについてつづってみました。

目の前で精いっぱい

介護、ハンドメイド、どちらも目の前のことだけで手いっぱいになってしまうことがよくありました。ハンドメイドにおいては現在も手いっぱいになっていますが、とにかく、目の前のことを片付けていくのに精いっぱい。

介護で特に大変なのは、サービスや今後について聞くときです。介護に関することは初めて聞く用語が多く、受けられるサービスなどもとても細かく分かれているため、間違いのないように集中しなくてはいけません

介護者の状況に合わせて、ケアプランを変えていくのが介護では重要だといわれていますが、それが必ずしも家族の現状に合っているかというと、そうとも限りません。特に、どうしても要介護者の状態を基準に判断するので、こちらの生活リズムなどが考慮されないまま、次々とサービスを提案されて「あれはどうなりましたか」なんてせっつかれることも。

こればかりは、ケアマネージャーさんによるのかもしれませんが、私のところを担当している方はそんな感じなので、断るのも一苦労です。かと思えば、家族の要望とはだいぶ離れたサービスの提案をされてまた一苦労。相手は要介護者の状態に合わせてサービスを、ということで、仕事としては間違っていないのですが、歩み寄り、現状を共有する、という家族への配慮としては少し足りない気もしています。

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私も家族も、目の前のことで精いっぱいなのに、次から次へと「外へ出ましょう」とか「デイサービスなどに通いましょう」と言われても、対応が難しいのです。自分で送迎できないとか、それなら何時までに迎えに来てとか、連れて行ってとか、あれを用意してとか……。普段の生活でもいっぱいいっぱいなのに、やることを増やされてはお手上げです。

そんなことが続いたため、自分が無視されて、置いて行かれているような気がして、介護に関係する人はみんなそんな感じだ、と思うようになってしまいました。訪問リハビリを担当してくれているAさんも、要介護者の状態についてアドバイスをくれていたのですが、手一杯の時に言われると「ちゃんとやってないの」みたいに言われている気がして、苦手になっていました。(もちろん、私が疲れていただけで、Aさんは悪意を持って責めるように言ったわけではありません)

はっとして、ぐっときた

そんなある日、要介護者とケンカ(言い合い?)をしたことによって、自分がしてきたことがばからしいなと思うタイミングがありました。目標があって、そのための手段として提案している運動を断られたのです。よくあるといえばよくあるのですが、目標を共有できない、高次脳機能障害の特性を恨むと同時に、すごく無駄な感じがしてしまったのです。

体力を、自分で歩く力をつけてほしいから運動するようにと一緒にやってきたのに、無駄だったのかな……。

そんな風に思って、それからは相手が運動しなくても、放っておこうと思いました。しかし、訪問リハビリで必ず、筋力低下や急な体重変化がないかなどを見る、体のチェックがあることを思い出します。もし、そこで筋力が落ちていると、また何か言われるんだろうか。やだなぁ、運動しないのは要介護者なのに、なんで私がよく見ておくように言われるのかな、とだいぶ気持ちが沈んでしまいました

そして、訪問リハビリの日。Aさんは特に筋肉量が減ったなどとは言わなかったのですが、つい、自分から聞いてしまいました。もう面倒なんて見るもんか、といいつつ、ついつい気にしちゃうのは、癖になっているんですね。

Aさんは3年以上担当していて、要介護者がどういう性格や性質、病状なのかを把握しているためか、とても落ち着いて、今どんな状況かを教えてくれました。そのとき、今まで持っていたAさんのイメージがふわっと変わったのです。

どうせ、困っていても助けてくれない、わかってもらえない。この人だって、仕事で来てるだけだから。

そう、思い込んでいた私の心に、すっと軽い風が吹いてきました。Aさんは要介護者のことを私や家族と同じくらいよく見ていて、どういうアプローチが効果的かなどを、順を追って話してくれました。それだけでなく、Aさんの視点としてはそのほうがいいけれど、実行するのは家族で、大変なら無理する必要はないと伝えてくれたのです。

あ、ちゃんと見てくれていたんだ。それでどうしていくか、目標・目的を共有していたんだ。わかってくれる人が、本当は近くにいたんだ。

そう、はっと気づくまでには、かなりの時間を要しました。Aさんが前から気にかけていてくれたことも、私が殻に閉じこもっているままだったので、気づいていませんでした。目の前のことで精いっぱいだったころには気が付けなかったことに、ほんのわずかでも余裕ができたことで、気づくタイミングができたのです。

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今では、Aさんと話すごとに、どういう考え方で、どういうやり方で、など、毎回気づきがあります。一挙手一投足が気になったりして、ついつい仕事の手を止めてみてしまう時も。今までは、完全に任せきりで、その間しかない自分の時間を大切にしていたのに、ずいぶんな変わりようです。何気ない会話だったとしても、後でよくよくかみ砕いてみると、あ、あれはほかの部分にも応用できるんだ、などなど。私の中でAさんは「気づかせてくれる人」として、頼れる人に変わりました

不思議ですね。介護を始めたころの私からしたら、想像できないことです。

あの時は、どんどん増える担当者などに愛想よくしなきゃ、と無理して嫌になったのに、今では自分から話しかけられるようになったんですもの。

振り向けば、気づけた

人間、目の前のことに集中していると、気づけないことがたくさんあります。介護も、ハンドメイドも、家業の廃業も、取り組んでいる最中は、まったくもって忙しすぎて、気づけるとしてもごくわずかです。

なんで私がこんな目に。どうして私ばっかり忙しい。なんで、どうして、そう言っている間は、何も気づけないのです。急に降ってきたのに、自分にあまり関係ないのに、やらなくてはいけない。不満もストレスも溜まります。それを吐き出すすべもなく、ただ淡々と目の前のことに取り組まなくてはならない。とてもつらいですよね。つらいどころじゃないくらい

今では、「あの時はこうだったけど、よく考えたら」とか「あれってああいうことなんだな」と冷静にとらえることができます。でも、それはあの時では気づけません。今だからこそ、冷静にみられるのです。客観的に見るには、客観的になれる環境が必要です。

台風で荒れる海の中では、泥や砂が巻き上げられて、目の前に進むのも必至です。けれど、生きていくためには泳ぎ続けるしかない。台風が過ぎて、きれいな青空になったから、海の中も遠くまで見えるのです。いつも荒波の中では、自分のことだけに意識が向いて、進んでいるのかおぼれているのかなんてわかりません荒波を抜けて初めて、あれは溺れかけていて苦しかったのだ、と理解するのです。たぶん。

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だから、今やっていることに答えが出ないのは当たり前だと思うようになりました。もちろん、成果がすぐに出るのであればそれに越したことはありません。けれど、出ないことが大半です。

だって、今はその成果に気づくタイミングではないから。効果ないじゃん、と思っていたことがある日どこからか縁をもたらす。意味ないじゃん、と思っていたことから突然、ヒントを見つけて物事が進む。そういうほうが、比較的多く起こります。

だから、答えを、成果に無理やり気づこうとすることはないのです。そうすると余計に、周りが見えなくなっていきます。草をかき分けて通ってきた道は、振り返るから道ができたとわかるのです。道ができれば、誰かのためになるかもしれません。そのとき望んだ結果が出なくても、焦るのはやめましょう。あとで振り返ったとき、必ずあなたに、何かの力となっていますから

しかし、そうはいっても無理は禁物です。買ってまで苦労はしないでください。何度も言いますが、無理は減らすものです。無理、無駄、ムラの3つを減らそうという経営論もありますが、その通りです。ただ、何が無駄で、何が無理になるのかは人次第。あなたの感性を磨いて、自分にいいもの・合わないものを判断できるようになれるといいですね。

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今回は、介護をする中で気づいたことについてまとめてみましたが、だいぶ長くなってしまいましたね……反省。

人生は、いつでも発見。そんなことを思いながら、今日も介護に向き合っていきます。

きっかけアクセサリー作家の、音海奏乃でした。

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