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ある日の瞑想から「出会いと別れ」についてあれこれ考えた末にたどり着いた、超シンプルな答え。

「出会いと別れ」について

「出会い」と「別れ」には同じ価値がある。

今朝の瞑想で気づいたことである。

「出会い」は嬉しくて「別れ」は悲しい。
・・・そんなことは当たり前だと思っていたのだが、改めて考えてみると、単なる思い込みだったのかもしれない。

「出会い」は良いもので「別れ」は悪いもの、私たちは知らず知らずのうちにそう心にインプットされてきた。

これはまた、「生と死」にも置き換えることができる。

しかし今朝の瞑想で伝えられたことは、今までの概念を根本から打ち砕くようなことだったのだ(恐らく、それを伝えたスピリットにとってはそんな大げさなものではないだろうが)。

つまり、すべては「出会いと別れ」なのだ、ということ。

そして「それらにはすべて同等の価値がある」のだと。

人との出会いはもちろん、仕事やモノ、すべての出来事や経験に同じ価値があり、それらはまたすべてが「喜び」なのだということ。


私は瞑想の中でスピリットに聞いてみた。

私:「すべてが喜びだということは、例えば良い香りを嗅いだ時の感情と嫌な臭いを嗅いだ時の感情にも同じ価値があるということでしょうか?」

スピリット:「そうです。『良い香り』と感じるかどうかは人それぞれで、『嫌な臭い』と感じるかどうかもまた人それぞれだからです。」

「つまり、あなたがそれをどう感じるかによって、あなたが望むものを選択する基準ができていくのです。」




感情について

そうか、確かにそうかもしれない。



私が良い香りだと思ってつけている香水が、誰かにとっては不快な気分にさせる匂いであることもあるだろう。

また、よくよく思い出してみれば、自分自身でもなぜかわからないけれど好きな香り(というか匂い)があったりする。
ガソリンスタンドの匂いや雪国の電車(なぜ雪国なのかは自分でも謎)の匂いなど、いわゆる「良い香り」とは思えないものに、なぜかうっとりすることがあると自分でも感じてはいたのだ。そんなことがきっと誰にでもあるのかもしれない。

だから、すべてのことには同等の価値があり、すべてのことが「喜び」なのだ。

お気に入りの入浴剤を入れたお風呂に入って「はぁー、しゃーわせ。」と感じることと、起き上がれないほどの腰痛にウンザリすることも同じく「価値のある事」なのだ。

♪︎─♭︎─♪︎─♭︎─♪︎

美しい音楽に癒されることと、外から聴こえてくる騒がしい宣伝カーの音にイラッとする感情もまた「価値のある事」なのである。

それが、この地球に生きる私たち人間に許された「自由意志」ということか。

* * *

すべての経験を「喜ばしいこと」と捉えられるようになれば、自分にとって望ましいものも引き寄せやすくなるというわけだ。

つまり、「自分にとって望ましくないもの」がはっきりすることで「望ましいもの」だけに意識を向けることができる。

また、望ましいものを選択するための材料となる「不快な感情」に対しても感謝することができるわけだ。

感情の話はこれくらいにしよう。

「出会いと別れ」について、もう少し掘り下げてみたいと思う。


♡──♡──♡

出会いも別れも喜ぶということ

「すべてのことが出会いと別れである」と前述したとおり、出会いと別れは毎日、瞬間ごとに起こっている。

例えばAmazonから荷物が届いた時には、配送業者のお兄さんとの出会いと別れがあり、届いたドッグフードとの出会いがあり、空になったドッグフードの袋との別れがあるのだ。

これらはすべて「喜び」なのだ。ていうか、この中に悲しむような要素は一切ない。

それではこちらはどうだろう。

バンドの結成と解散。

バンドメンバーとの出会いと別れ。

♪︎──♪︎──♪︎

正直言って、15年間という長い年月バンド活動を共にしてきた仲間との別れは「喜び」と言うにはあまりにも辛過ぎる。

しかし、それは新しい何かと出会うためにどうしても必要なことなのだ。だから、「解散する」と決心できたことは私にとってもすべてのメンバーにとっても「喜ばしいこと」なのである。

「終わり」は「始まり」なのだ。

実は、今回の気づきを得る前から「生まれること」と「死ぬこと」は同じ価値があるということに気づいていた。

「生まれることは喜ばしいこと」で「死ぬことは悲しいこと」というのは古い観念なのだと。

それに気づいてからは、新しい命の誕生ばかりを喜んで、命をまっとうした人を悲しむという世間の「当たり前の反応」に奇妙な感情を覚えるようになった。

そして、「死ぬこと以外はなんでもない」という一見豪快な言葉にも、その裏側には「死に対する恐怖」という本質が隠されているのだ、ということにも気づいた。

恐怖感を煽る演出の必要性って?

また、以前から気になっていたものの一つに、死や暴力に対する恐怖感を煽る風潮がある。
例えば、テレビや映画などで使われる音楽だ。

人間には「怖いもの見たさ」という性質が元々備わっているために、それを満足させるためのエンターテインメントが存在することは理解できる。
B級ホラー映画などの場合は怖いどころか、あまりの安っぽさに笑ってしまうことさえある。

しかし、テレビのドキュメンタリー番組など「実際に起こったこと」を紹介する番組のBGMが明らかに恐怖感を煽るものが多い、というのは一体どういうことなのかと。
実際に起こったことを「事実」として伝えるのならば、「ありのまま」を伝えるべきであって、「悲しい演出」などする必要はないのだ。

* *

私は子どもの頃から戦争について熱心な教育を受けてきた。そして、「死の恐怖」を伝えるために過剰に演出されたものをたくさん見てきた。それこそ、嫌と言うほど。

しかし、これらは果たして本当に必要なものだったのか?と、今は疑問に感じている。
その時に感じた恐怖そのものが、当時の自分の心を深く傷つけていたことに気づいたからだ。

また、「悲惨な歴史から目を背けてはならない」と教え込まれてきたせいで、「我慢してでも悲惨なものを見なければいけない」と自分に言い聞かせるようになり、自らの心を傷つけることを課題のようにこなしてきてしまったのだ。

実際にこれらの課題をこなすことで、どうなったかというと・・・
自らに起きる悲惨な出来事さえも「耐えなければならない」と思うようになってしまった。
そして、ウン十年にもわたって自分を傷つけるような出来事に耐え続けてきたわけだ。
それが自分の運命なのだと。

しかし、本当はこうして思い出すだけでも吐き気がしてくるほど辛いことだったのだ。
「自分の心を傷つけるもの」とわかっていながら、それに耐え続けることを自ら選択するという感覚は。

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「もしかしたら、自分はマゾなのかもしれない」と思ったことさえある。傷つけられることが喜びなのかもしれない、と。

しかしそれは違ったようだ。
こうして今、その時の経験を思い出すことで身の毛もよだつ思いがし、吐き気まで催しているということは。
では、一体なぜ。

「死」を恐れなくなるためか。
そうかもしれない。

そして辿り着いた、超シンプルな答え。

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確かに私は「死」を恐れなくなった。

それは人が「死」を恐れる気持ちが心の底からわかるからだ。

そして、死ぬことが生まれることと同じく「喜ばしいこと」なのだと気づいたからだ。

だから、「何歳で死ぬことになっても、どんな状況で死ぬことになっても、その価値は変わらない」と自信をもって言えるようになったのだ。

100歳を超えた人と何度か接してみてわかったことがある。
彼らはすでに死を恐れてなどいないのだ。

ただその日、その瞬間を生きること。
それだけが幸せな人生の秘訣なのだと。


♡♡♡最後までお読みいただき、ありがとうございました。あなたの幸せのヒントが見つかると嬉しいです^^!いっっぱいの愛をこめて。♡♡♡

桑田華名

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