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こうやって思い出さない日が増えて平穏に変わってしまう自分が怖い

まずは中学の話をしようと思う。

母ちゃんは偉大な人だ。まだまだ学ぶべきことはたくさんあるし、聞きたい話もたくさんある。私は専門学校まで母に言われた通りのレールの上をとぼとぼ歩いてきた。もちろん失敗なんてしなかったし今も後悔はしていない。寛大な人で、厨二病になった時も学校から逃げた時も何も触れず志布志からはるばる市内までアニメイトに連れて行ってくれた。
私はねっからの負けず嫌いで、その割には負けてたまるか!なんて反骨精神などこれっぽっちも持ち合わせていないのですぐ心が折れる。それを思い知らされたのが中学だ。
幼少期は人よりも勉強も運動もなんでもできるタチだったが、中学校3年生早々、なんでもできる自分が崩れ始める。
小学校から続けていたバレーボールのせいで膝、腰、足首至る所に怪我をした。毎日、リハビリと整体の往復。
そして、中3のバレーボールの総体。テーピングを巻いてくれている母ちゃんが私の膝をさすりながら背中越しにこういった。
「今日でバレーボール最後にしようか」

最後の一点が終わった瞬間、全てが終わった。私の中心であったバレーボールが消えた。
私は燃え尽き症候群になった。なんでもできる自分なんてこれっぽっちのものだったんだ。自分の小ささを知った。
バレー部みんなでやろうといっていた体育祭の応援団も、辞退した。共に戦ったバレー部の言葉でさえも一枚分厚いアクリル板越しに少し遅くモヤがかかって聞こえた。

腰が痛い。その言葉を言い訳に学校を休む日が増えた。

私の学校には、あるルールがある。
自分の体育シューズが下駄箱に押し込まれていたら次のイジメのターゲットになる。ある朝、私の下駄箱に体育館シューズが無造作に押し込まれていた。それから、気にかけてくれていたバレー部のみんな、そして同じ髪型にし、出席番号も前後同士で大好きだった唯一の親友も失い、私に話しかける人はいなくなった。

体も心もボロボロでもぬけの殻だったあの頃、母ちゃんは鹿屋の底辺高校に入学を勧めた。長女を見て進学校には行きたくないとは思っていたし、その時はもう未来なんてどうでもいいと思っていた。母ちゃんが喜んでくれるならどこでも良かった。アクリル板が取れる瞬間は家族の顔が見れた時だけだった。
母ちゃんいわく、進学校である程度の順位で勉強を頑張るくらいなら底辺の学校で上位の方がまた頑張るかなに戻ってくれるのではないか。そう言う魂胆だったらしい。
おかげさまで中学校の友達がいない高校は新しいたくさんの友達に囲まれて楽しい学校生活を送ることができた。
大人になってから、かなが勉強頑張ったらどこまで行けたのかほんとは少し楽しみにしてたんだよ。とかあちゃんからいわれたことがある。
でも、
母ちゃんには心から感謝している。ありがとう。

かなは母ちゃんの分身になりたい。母ちゃんのように強くなりたい。きっと、かな以上の底知れない苦しみを味わってきたような諦念とおおらかさが混濁している。ような気がする。でも母ちゃんは暗い話、真剣な話はあんまりしたがらないたちだ。なかなか聞き出すのに苦労する。

わたしも、弱心と恥を全て包み込んでその痛みさえも包み込んでなお他人に微笑み、助けるおせっかいな母ちゃんに、なりたい。

この間、仲のいい友達に吐き捨てられた
「かなは絶望に酔ってるよ。絶望の中の気持ちよさに酔ってるだけだ。」

そうかも知れない。
生き辛さは
病院でも薬でも治らない
病気でも障害でもない
私は普通に死にたがりで
自堕落な健常者だ。
土足で踏み込まないでって言うほど
最初から私は、綺麗じゃない。

人生を変えた1人の友人がいる
あえて、彼女の話はしないでおこうと思う。

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