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悲しみさん、こんにちは

三浦春馬さんの死が自分のなかで消化できていないと気づいたのは、1週間前。ドラマ「おカネの切れ目が恋のはじまり」を見た時でした。

コミカルだけれどもテーマ性のある物語に純粋に引き込まれながら、三浦春馬さんの屈託ない笑顔になんども胸が締め付けられて、時折画面から目を反らしてしまいつつ。見終わったときには少し涙が流れてぼうっとした。

そのあと、お風呂にはいってシャンプーをしていると涙がじわっと上がってきて、こぼれた。曇ったガラス越しに自分の泣き顔とご対面。

涙を流したのは久しぶりかもしれないな、

大人は、シャワーで流しながら泣くくらいが良いのかもしれないな、

泣く場所を選ぶくらい、自分を抑え込んでいたのかな、

なんてことをぼんやりと考えた。

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正直、わたしは、生前の三浦春馬さんについては、才能溢れる魅力的な人だとは認識していたけれども、言ってしまえばその程度の抽象的な印象しか持てていなかった。

それなのに、彼の死を知った日から、たびたび思い出しては、もやもやした感情を抱いてた。

慌てて観に行った『コンフィデンスマンJP』の爽快な世界観に引き込まれた時には、ぼわーっとしたわだかまりのようなものを感じた。

でも、そんなときは、「特別ファンだったわけでもないわたしが悲しいはずないじゃない」とか、「よく知ってるわけでもないし」なんて言い聞かせて、すぐに日常を戻してた。

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今回はたまたまドラマの後に溢れた涙で彼の死を悲しんでいる自分に気づくことができたけど、

何かしらの理由をつけて、悲しみをなかったことにしたことって誰にでもあると思う。’私は強いから’ とか、’私には直接関係がないから’ とかいって。

ただ、不思議と、喜びは対処しなくてもふわふわと昇華するのに、悲しみはちゃんと向き合わないといつまでもそこに居続けてしまう気がする。たとえ蓋をしても、飛んでいったり、他の人が持っていってくれたり、無かったことにはならない気がするの。

だから、多分なんだけど、たまには蓋を開けて、私は悲しいんだってことに向き合わないといけない気がする。

でも、わたしは、いまだに、悲しみに出すべき処方箋を知らなくて。

だから、せめて、悲しみさん、こんにちは

たまに挨拶をして、認めてあげられたら、いいのかな

そんなことを、思いました。


kan.