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#9 【価値ある人生とはどのようなものか?】 募金を呼びかける理由

 人生に変化が訪れたとき、選択に迷ったとき、どん底の状態に陥ったとき、あるいは他人と比較したとき、わたしたちは考えることがある。それが、「価値ある人生とはどのようなものか?」

 この記事では、この問いに対するわたし(自伝の執筆と保管を文化に|匿名性自伝サービス「アークカイブ」運営代表)なりの考えを紹介しつつ、あわせて、匿名性自伝サービス「アークカイブ」が募金を呼びかけている理由についても触れる。

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価値ある人生とは?

 「価値ある人生とはどのようなものか?」この問いに読者のみなさんは何と回答するだろうか。いくつか候補を出すなら、幸せであること、自己実現が達成しうること、そして裕福であること。これらの回答を挙げた方も多いように思う。また、この問題をさらに現実的に考えていくと、お金の問題も絡む。当然ながら、社会はたくさんの人々の経済活動から成り立っているため、どの選択をとるにも、大抵の場合はお金が必要だ。結果、わたしたちはお金を得るために大きなエネルギーを注ぐ。
 もちろん、価値ある人生を目指してお金を稼いでいたハズが、時にはあらぬ方向へと逸れる場合もある。この資本主義社会では、あらゆる形で利益を追求した競争が展開され、気が緩むと即座に餌食だ。ネットに繋げば、広告宣伝のオンパレード。関心のある事柄について検索すれば、広告宣伝が潜む検索結果。さらに電車からテレビ番組まで広告宣伝にあふれる。たくさんのモノやサービスがあらゆる媒体で広告宣伝として登場し、巧妙な訴えかけによってわたしたちに消費を促す。
 この社会に浸り続けると、次第にお金であらゆることが解決できるような気さえしてくる。実際、解決できることも大きい。ただし、金額で表せるもの以外の価値とはなんだったのか。こんな素朴な疑問が生じる。
 そこでこの記事では、お金以外の価値についてみんなで探求したい。そのうえで改めて、「価値ある人生とはどのようなものか?」について、何かしら得られる気づきはないか見ていく。

文化経済学

 さっそくだが、金額で表せるもの以外の価値について探求したとき、参考になる書籍が見つかった。それが書籍「文化経済学」(池上惇、植木浩、福原義春 編)。「文化経済学」という言葉を初めて耳にした読者も多いと思うので、最初にこの言葉の意味とあわせて書籍の内容を簡単に紹介したい。
 まず、「文化経済学」の後半にあたる「経済学」という言葉の場合、馴染みある方も多いはず。経済学は「人がお金でどんな欲求を実現するのか?」について考える学問。世の中にあるモノやサービスは、それを提供する人と、そのサービスやモノが欲しい人がおり、基本的には市場での両者のバランスで価格が決まる。そして社会では為替、株価、給料、保険、慰謝料、水道代、消費税、学費、家計、お布施など、あらゆるものが金額で表されている。このように考えていくと、世界のあらゆるものの価値はお金の量で示せるのではないか。無意識のうちにそんな感覚を覚える。
 当然、そんなことはない。そこで「経済学」という言葉の前に「文化」という言葉がついた「文化経済学」の出番になる。わたしなりの解釈でシンプルに説明すると、市場でのお金のやり取りでは考慮できていなかったものに注目した学問。まさにお金で示せるもの以外の価値について考えたい私たちにとってピッタリの内容だ。

お金で示せないもの

 では、「市場でのお金のやり取りでは考慮できていなかったもの」として、どのようなものがあるだろうか。結論から言えば、書籍「文化経済学」のタイトルからも分かるように、文化(人々の思考パターンと、それと連動した生活の形や社会集団の組織の様式)に関わるもの。書籍の中では、舞台芸術という芸術文化サービスを例に上げ、くわしく説明していた。
 まず舞台芸術といえば、オーケストラや能など、実演者が音楽・言語・アートなどの表現方法を使い、鑑賞者に体験というサービスを提供する。もう少し分解して説明すると、実演者の脳内の文化的な情報(以後、文化情報と呼ぶ。詳細は#1記事を参照)を鑑賞者の脳へ、芸術的な表現方法で継承する活動といえる。

オーケストラ image from wikipedia

 もちろん、一見するとまわりくどい芸術的な表現方法ではなく、スピーチや会話を通して、頭の中で考えていることを他の人へ話すという方法もある。しかし、研究者同士が専門用語で会話した方が効率的なように、舞台芸術の場合、歴史的背景や実演者の感情・考えを表現方法に乗せ、鑑賞者の五感に多用に訴えかけることが可能。ようするに舞台芸術では、言葉や文章とは比較にならないほどの情報量を感情を揺さぶる形で表現できることが強みではないだろうか。
 実際、伝統ある舞台芸術の場合、たった一度の鑑賞によって、人生の選択や生きがいに影響を受けるほどの、洗練された文化情報を継承することもある。実演者と鑑賞者の間で文化情報が継承され、鑑賞者の考えや行動に影響を与えていく様子は、まるで親の容姿や性格が、遺伝子を介して世代間で継承され、子供の行動に影響を与えていく様のようだ。
 要約すると、長い歴史を通して蓄積された、人類の知的な文化情報が表現され、多くの人が鑑賞できるように運営されていることこそ、舞台芸術の魅力ではないだろうか。また、有名な劇場は周囲の経済を活性化させ、国や地域のアイデンティティにもなる。人々の生活を支えるインフラストラクチャーとのことだ。

市場での運営が困難な芸術文化サービス

 そんな舞台芸術だが、既存の市場では運営が困難なケースも多い。理由を一言でいえば、伝統や実演者の技術など、磨かれた「個性」によってのみ、洗練された文化情報の発信されること。需要に対して運営側が供給の量や質を変えることが難しいのだ。
 もう少し詳しく考えていくにあたり、店頭で売られているようなパソコンを考えよう。パソコンの場合、技術革新によって価格を抑えつつ、生産量を増やすことが可能だ。また一般的に、同じ価格帯のパソコンであれば、仕様の優れる方が市場では勝利する。
 一方の舞台芸術は、伝統に従った実演者の手仕事であり、表現方法に大きな技術革新は存在しない。つまり、鑑賞したい人が増えた場合でも、舞台の数を簡単には増やせない。もちろん、チケット価格の引き上げも可能なものの、高所得者のみに鑑賞が限定され、公共性に欠けてしまう。
 さらに、舞台芸術の内容はパソコンの仕様のように簡単には比較できない。鑑賞者にはそれまでの人生の積み重ねによる「個性」があり、その「個性」にあわせて鑑賞する舞台芸術も選ばれる。言い換えると、価値に気づかれていない不人気な舞台芸術の運営は苦しく、時流によっては供給過多になることもある。

補助金で運営される芸術文化サービス

 ここまで、舞台芸術の運営が困難な理由を見てきた。もちろん、市場で運営が困難な芸術文化サービスは舞台芸術以外にも多い。スポーツ、漫画、芸能など、「個性」の度合いを低くし、大衆に向けられた、参入ハードルの低いサブカルチャーを除けば、芸術文化(アート)の多くは市場での運営が難しい状況だ。

(【補足】サブカルチャーと芸術文化の違いを明確にすることは困難。本記事では「個性」の度合いで分けたい。
消費者の学習コストが低い、容易に娯楽として選択できる、ファッションのように流行したあとは消えていく、など、他者と共有しやすい反面、「個性」の度合いが弱い「売れる」文化情報の継承活動をサブカルチャーとする。
学習などの面から参入ハードルが高い、伝統を通じて人類の知的な資産として継承・発展している、人々の人生の選択や生きがいにとって大きな影響を与える、など、磨かれた「個性」(才能、長時間の鍛錬、歴史的背景など)による洗練された文化情報の継承活動を芸術文化とする。)

 しかし、先ほども述べたように、芸術文化サービスの活動を通じて継承される洗練された文化情報は、高所得者のみならず、多くの人が触れることができる人類の知的な資産。威信を高め、地域活性化にも繋がり、人々の生活の基盤となるインフラストラクチャー。結果として、道路、博物館、図書館といった公共サービスと同じく、国や自治体の補助金を使いながら、公共性のある運営が行われることが多い。

お金で示せない「個性」

 磨かれた「個性」による、洗練された文化情報の表現をおこなっている芸術文化サービスほど、市場での運営が困難なことが分かった。優れた芸術ほど「個性」を突き詰めることになり、その表現を理解できる人にとってはこの上ない芸術空間となるものの、大衆からは遠い存在となるイメージだろうか。
 また、ここまでの説明から、読者の中には「市場でのお金のやり取りでは考慮できていなかったもの」の正体がぼんやりとイメージできた方も多いかもしれない。そう。何度も使用してきた言葉「(文化情報の継承に関わる強い)個性」というものではないだろうか。さらにこの「個性」だが、芸術領域に問わず、あらゆる経済活動に関わってくる。よりイメージを明確にしていくため、(#6の記事で取り上げた)経済学者アマルティア・センによる説明を見ていこう。
 こちらも書籍「文化経済学」でも述べられていたことだが、(私なりに簡単に解釈して言えば)アマルティア・センは、「個人のバックグラウンド」と「個人が考える価値ある人生(目標・夢・自己実現・幸福など)」という「個性」の二つの要因について経済学は考慮できていないと批判している。別の言い方をすれば、市場でのあらゆるお金のやり取りは、これらの「個性」が切り離され、購入という「結果」だけを扱っているに過ぎないという主張だ。
 より具体的に、ありふれた例から見ていこう。たとえば、受験に備えて二人の子供が、本屋で数学の参考書を1000円で購入したとしよう。この子供たちの狙いは、1000円を支払い、数学の参考書を手にすることで、人類が築き上げてきた数学の知識や参考書の筆者が積み上げた数学の問題の解法のコツという文化情報を継承しようというもの。1000円で二人は同等の欲求を満たしたと、経済活動の動きからは見える。
 しかし、二人の子供のバックグラウンドを考えるとどうだろうか。二人の子供には数学の才能に違いがあるかもしれない。一人は参考書の内容を80%ほど理解し、もう一人の子供は途中で挫折したため、40%ほどしか理解できなかったとしよう。1000円というお金のやり取りだけでは、才能という「個性」に基づく文化情報の継承が十分に示せていないことになる。
 もちろん、途中で挫折した子供には教育熱心な両親がおり、両親の励ましや手厚いサポートによって、最終的に参考書の内容を90%ほど理解できた可能性もある。いずれにせよ、家庭環境という「個性」に基づく文化情報の継承が経済では示せていない。また、この二人の子供がお互いに知り合いだった場合はどうなるだろうか。参考書についてお互いに相談する機会もあるかもしれない。そこで相手と自分の理解度を比較し、さらに勉強に熱が入る子供もいるかもしれない。もしくは、志望校という(個人が考える価値ある人生に向けての)目標を変更するに至るかもしれない。
 ようするに、1000円で参考書を購入して欲求が満たされたという「結果」だけでは、肝心の、数学の問題の解法のコツという文化情報がどの程度継承されたかは分からない。それはお金で表せていない「個性」(この場合は才能、家庭環境、人間関係などの、お金で示せていない個人のバックグラウンド)に依存し、最終的には(個人が考える価値ある人生に向けての)目標を変更させるに至る。
 ひとまず、市場で成り立つ数学の参考書という題材で「個性」を見てきた。一旦、芸術文化サービスの「個性」に着眼点を戻そう。才能あふれる実演者による、何十年にも及ぶ無償の鍛錬と内省を繰り返した末の「個性」。その「個性」によってはじめて表現される何百年もの歴史と無数のテーマが秘められた文化情報。もちろん、そこから快感やメッセージを受け取り、未来の行動へ活かすことができる鑑賞者側の強い「個性」。こちらも長年の勉学、熟練の経験、研ぎ澄まされた五感、人生を通して培った価値観、抱えている苦悩などによって出来上がった「個性」だろうか。
 このような芸術文化サービスは、サブカルチャーや教育市場ほど大きくはないかもしれない。しかし、実演者と鑑賞者にとっては、チケットの価格ではとても表せない、「価値ある人生とはどのようなものか?」を考えていくことに繋がるイベントとなりうる。
 なお、経済学で「個性」の価値が表せていないとアマルティア・センが気が付けた要因に、(#6の記事で取り上げたように)自らの壮絶な人生経験や、セン自身が社会的・政治的なテーマを扱った劇に夢中になっていたからかもしれない。

生きる上で必須の欲求を満たす芸術文化サービス

 「個性」というお金で示せないものの価値があり、文化情報の継承に大きく関わることは、数学の参考書の例や、芸術文化サービスについて考える中で分かってきた。しかし、先に述べた、公共性のある芸術文化サービスが「人々の生活の基盤となるインフラストラクチャー」であるという主張は、やや飛躍し過ぎているように感じた読者もいたかもしれない。
 公園や図書館など、公共の福祉のための施設と比べ、芸術文化サービスがより「個性」的なものに思えるからだろう。無縁な人にとっては生涯無縁にも見える。また、逆説的にいえば、洗練された文化情報であれば、市場経済の中で成り立ってもおかしくない気もする。実はこれらの疑問についても書籍「文化経済学」で触れられていた。
 私なりの理解で説明すると、つまるところ、わたしたちは平時における価値や市場経済で物事を考え過ぎている可能性があるとのこと。いくつか例を挙げると、いざという事故、病気、苦境、苦しい決断を迫られた時、そして人生を振り返るライフステージに到達したときなど、これらの状況下での価値を見落としているのではないか。書籍の中では1995年に起きた阪神淡路大震災による被災した地域の経済復興の分析が行われており、この例が分かりやすい。
 どうやら著者も、高度に発達した都市では、効率性を追求した市場経済が支配すると考えていたそうだ。しかし、それは平時のときのみだった。いざ震災に見舞われると、危機で出現したのは、他人のために役に立ちたいという無償の衝動からはじまった、寄付やボランティア活動による贈与経済。また、普段は美術館や音楽ホールに行かない人も、復興の時期には芸術文化に触れるために足を運んだそうだ。
 日常が計画的かつルール通りに進んでいるとき、市場経済は安定し、金銭的な利益の追求が生存競争の上で合理的になる。しかし、いざ震災が起き、お金の価値が失われ、生命に関わるような危機的状況に陥ったときは別。心が原動力となった無償財(非営利活動、家族間の無償の行為、宗教活動など、利潤と報酬を目的としない無償の提供)による、贈与経済がうまく機能した。また、危機的状況に陥った直後は、「価値ある人生とはどのようなものか?」という問題に向き合う欲求が高まり、芸術文化サービスに価値が置かれた。洗練された文化情報を求めることは、人間が生きる上で必須の欲求ということだ。
 この震災の例からも、改めて平時の市場が価値を正しく表しているわけではないことを実感する。身近な話だと、市場では成り立たないものの、運営されている組織として警察や消防隊などがある。いざという時、警察サービスが治安に、消防サービスが火災の消化活動によって人々に働きかける。一方の芸術文化サービスは、人々に快感や内省の機会を設けるというイメージではないだろうか。

お金に脅かされる芸術文化サービス

 芸術文化サービスがインフラストラクチャーの役割を担うことを見てきた。しかし現実には、財政危機によって科学研究や芸術文化創造への公的支援を削除せざるをえない状況のようだ。これは文化が軽視され、言い換えると、お金で人々が人間らしい生活を送る上での欲求が満たされにくくなっていることを意味する。
 何より気になることは、なぜこのような状況に陥っているのか。もちろん、書籍「文化経済学」でも要因が述べられており、お金が社会生活に入り込み過ぎた影響が指摘されていた。記事の冒頭でも述べたように、すでにあらゆるモノの価値が価格で表せるような気がしている方も多いかもしれない。
 価格だけで物事の価値を考えるようになると、リスクも伴う。お金を増やすためだけに働き、お金を守るための手段として消費も位置付けられる。この記事で述べてきた、お金で表せない社会に潜む「個性」が軽視され、文化情報の継承も途絶えていくことを意味する。これでは次第に感性や理性を損なわれ、無感動な人間へと変貌を遂げる。このような状態では、創造や工夫の意欲も失われるとのこと。創造性や内省というよりは、娯楽要素の強いサブカルチャーの市場が大きくなることも納得できる。
 また、お金を大量に蓄積した人は、さらに稼ぐため、消費者の無知や生活状態へと漬け込み、社会を支配する。これによって日々の生活に追われる人は増え、お金を手にいれるためにだけ働くことに。完全に悪循環に突入している。最終的に、お金を大量に蓄積した人と、希望を失った人々との対立が激化していく可能性もあるようだ。
 文明の発展は、厳しい生存競争の中で、より多くの人が人間らしい生活を追求できるようにインフラの整備を実現した。とはいえ、お金が社会生活に入り込み過ぎた影響は、再び人間らしい生活を阻害する方向にも働いている。このような状況で私たちはどのような選択が取れるだろうか。「価値ある人生とはどのようなものか?」を考えていくにあたり、最後に書籍『「アメージング・グレース」物語』を挙げたい。

アメージング・グレース物語

 読者の皆さんも曲「アメージング・グレース」を一度は聞いたことがあるかもしれない。オーケストラによって演奏されることもある曲。美しいメロディーからの快感、神の恵みがテーマとなった作詞により、促される内省。さらにこの曲の背景を辿ると、思想や人権問題が関わる。数百年と続く讃美歌(1779年に出版された讃美歌集に記載)であり、深い内容を持つことから、洗練された文化情報の一つではないだろうか。
 この曲の作詞は、ジョン・ニュートンというイギリス人の牧師によって執筆されており、注目すべきはその壮絶な人生。書籍『「アメージング・グレース」物語』(著:ジョン・ニュートン、編訳:中澤幸夫)では、ジョン・ニュートンが執筆した手紙をもとにした自伝が取り上げられている。
 1725年にロンドンで生まれたニュートンは、優しく教育熱心なクリスチャンの母親のもとで育てられる。母親が宗教や思想という文化情報を、子供のニュートンに無償の心で継承したということだろうか。しかし、そんな母親はニュートンが6歳のときに亡くなる。心の拠り所を失ったことで、その後は迷える人生が待ち受ける。気持ちや行動も極端に変わりやすく、周囲から嫌われることも多い人生になっていったようだ。

ジョン・ニュートン image from wikipedia

 ひとまず、船長だった父親に影響され、十代から主に奴隷貿易の船乗りとして仕事に就く。一旦、18歳で海軍に入隊すると、脱走を試みて失敗。連れ戻された海軍で居場所がないまま航海していると、他の船に交換してもらう幸運が訪れる。しかし、引き取ってもらった先の船で、恩人ともいえる船長を馬鹿にし、新天地でも立場も失う。最終的には、アフリカの原住民の生活に辿り着き、奴隷のようなどん底の日々を15ヶ月送っている(その後、運良く船に乗ってイギリスに帰ることが出来る)。
 この様々な経験の間で、亡き母親の願ったように、神への信仰を取り戻そうとするものの、信仰と挫折を何度も繰り返したそうだ。そして決定的とも思われる出来事が訪れる。乗っていた商船が嵐に巻き込まれ、損傷するのだ。船の中に海水が浸水し、今にも沈みそうになる。死を覚悟したこの状況で、ジョン・ニュートンが考えたことが、「もしキリスト教が真実なら、自分は赦されることはなく、このまま最悪の事態を迎える」ということ。しかし、奇跡的に浸水は止まり、そこで改めて信仰に向き合うことになる。
 最悪の事態は避けられたとはいえ、まるで難破船。さらに漂流すること4週間が経過する。餓死するか、船員同士で食い合うかの瀬戸際の状況。それでもジョン・ニュートンが祈りを続けていると、風が吹き、何とかアイルランドに辿り着けたそうだ。
 もちろん、このような奇跡的な生還を遂げても、人間の心は弱い。しばらくすると、また信仰が弱まり、道を踏み外すようになる。ようやくその時が訪れるのは、また別の航海のとき。激しい熱に襲われ、走馬灯が浮かび、今度こそ終わりを感じる。そのとき、人目をはばからず思いっきり祈り、根強い信仰の決意が得られたそうだ。その後は、航海中も自発的な克己心を身につけるように努めていき、聖書や古典の理解に励む。また、妻への手紙を執筆することを通し、あらゆるテーマについて考え、内省し、書くことを身につけていく。洗練された文化情報に触れ、内省の機会を自ら習慣化した時期といえる。
 ジョン・ニュートンは、最終的に母親が希望していた牧師になり、社会に貢献していく道を選ぶ。牧師として説教を行い、寄付金で当時の貧しい人々の救済に尽力したそうだ。さらに、無知だった自分を恥じ、奴隷貿易の廃止を訴えた論文を公表し、違法性を訴える活動にも貢献。
 編訳者によるはしがきでは、アメージング・グレースの奥深い世界を人々に知らせることは文化的な責務であり、自分が知り得たことを自分だけに留めず、多くの人に知ってもらいたいという人間の抑えがたい欲求があったと記されていた。

まとめ|アークカイブは募金で運営

 お金が社会生活に入り込み過ぎた結果、あらゆるモノの価値が価格で表せるのではないか。無意識のうちにそんな感覚を覚える。しかし、これと同時に言葉で表現できない違和感にも気がつく。そこでこの記事では、お金の量では示せないものの価値について考えた。
 そしてたどり着いた先が、書籍「文化経済学」に記載されていた経済学者アマルティア・センの説明だ。個人の背景には、才能、人生経験、家族、コミュニティ、宗教、ジェンダーなどがあり、その上で経済活動を通して文化情報を受け取りながら、「価値ある人生とはどのようなものか?」を目指していく、という人生の捉え方が紹介されていた。改めて、経済活動は私たちの生活のごく一部を表しているに過ぎず、社会は(お金では示せない)「個性」を持ったたくさんの人間から成り立っていることを実感した。
 また、肝心の「価値ある人生とはどのようなものか?」については、多くの人があらゆるライフステージで関心を持つ。そんなとき、誰もが洗練された文化情報を通して、快感や内省の機会が得られる芸術文化サービスが整っていることこそ、人間らしい生活を追求できる社会といえることも確認。公共性を持った芸術文化サービスは市場で成り立たないものの、社会の欲求に応える大事なインフラストラクチャーということだ。
 ただし、#6の記事でも確認したように、世界経済の流れは強烈。その中では、金銭的利益が重視され、「個性」に十分な関心が払われないことも多い。芸術文化サービスへの出資額の縮小を含め、今後ますます「個性」が軽視される社会が訪れるかもしれない。

 そこで最後に、書籍『「アメージング・グレース」物語』を取り上げた。舞台は奴隷貿易が合法な時代。自身も奴隷貿易に加担していたジョン・ニュートンは、亡き母親の無償の心から継承された宗教や思想という文化情報を頼りに、「価値ある人生とはどのようなものか?」を模索していく。紆余曲折を経て最終的に、貧しい人々や奴隷の人々がより人間らしい生活ができる社会となることを目指し、牧師として活躍する道を選ぶ。曲「アメージング・グレース」は、数百年と継承・発展を遂げている文化情報であり、その背景には、金銭的な利益より、多くの人の「個性」が尊重される社会の実現に向けて動いたジョン・ニュートンの人生が隠されていた。
 なお、ジョン・ニュートンの自伝を読むと、当時の航海の様子から、アフリカの状況、ニュートンが触れた古典、自己や病気を通して内省を繰り返す様子を学ぶことができる。改めて、自伝もまた執筆者が経験して得た人類の知的な資産の一部であることを認識する。実演者が鍛錬を通して磨き上げた個性によって舞台芸術は表現されるように、自伝もまた人生を通して磨き上げられた個性の集大成であり、芸術的だ。
 もちろん、これはジョン・ニュートンの自伝に限った話ではないだろう。これからは、きっと全ての人の「個性」ある自伝が洗練された文化情報となり、匿名性自伝サービス「アークカイブ」を通じて継承されていくのではないだろうか。たくさんの人が来たるタイミングで自伝を執筆し、長期的に保管していく文化が根付くことによってこれは実現される。個々が金銭的な利益の追求という価値観に対抗する手段でもあるのではないか。
 そんな未来の実現のためにも、わたしは誰もが自伝を執筆し、それが長期的に保管される環境を整えるため、匿名性自伝サービス「アークカイブ」の運営をはじめた。

※補足)読者の皆さんからは懸念もあるだろう。たとえば、「インフラを目指すアークカイブは市場での運営が成り立たないのではないか?」という疑問。本記事でも述べてきたように、これはその通り。そこでアークカイブでは募金を呼びかけている。
 もちろん、募金という無償財で運営するにあたり、持続可能な透明性のある運営形態も模索している。現段階では、慈善団体が効率的な運営が出来ているかの評価を行う「チャリティー・ナビゲーター」を参考にする予定だ。アークカイブ運営の財政状態や活動実績を公開しつつ、みなさまに自伝の執筆と募金を呼びかけていきたい。

【参考文献】

・池上惇・植木浩・福原義春[編](1998) 「文化経済学」 有斐閣
・アマルティア・セン(1988) 「福祉の経済学: 財と潜在能力」 岩波書店
・ジョン・ニュートン(著)中澤幸夫(翻訳)(2006), 「『アメージング・グレース』物語」 彩流社

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