黄色い薔薇

銀座の夜の黄色い薔薇

数ヶ月前、ある週末の昼下がり、真空管アンプでもの凄く好い音でレコードを聴かせてくれる名古屋のJAZZ喫茶のカウンターで、昼間からメイカーズ・マークのソーダ割りを飲んでいた。今かかっているレコードが誰の演奏か知りたくてレコードジャケットが飾られているカウンターの隅を見ると、ジャケットの隣に黄色い薔薇が生けてあることに気がついた。その黄色い薔薇を見て、ずっと忘れていたことを思い出した。

「マスター、この黄色い花、薔薇ですよね?」
「そうですよ」
「もう随分前の事だけど、私の父が銀座で食事をしてその後とあるバーに飲みに行く時に、必ず街角の花売りで黄色い薔薇を一輪買って、そのバーのママにプレゼントしていたんですよ。ママと言っても父よりずっと若い人でね」
「へえ、そんなこと息子さんだった斎藤さんが知ってるんだ?」
「父は僕もそのバーに連れて行ってくれたんですよ」

私が高校一年生になった時、1979年の初夏のはずだから今から41年前、父と母と私の三人で銀座で食事をした後に、父と母が私を銀座一丁目の路地裏にあった小さなバーに連れて行ってくれた。私は学生服を着ていた。銀座の路上には屋台の花売りが毎晩店を出していた時代だ。

「おまえもこれから仲間と酔っぱらって、金も電車も無くなって帰れないなんてこともあるだろう。そういう時はなんとかしてここまでたどり着けば、ママが助けてくれるよ」そう言って紹介してくれたカウンターの中の女性は、高校一年生の私が「飲み屋のママ」という言葉から連想する女性像とはかけ離れた、凛として鮮烈な印象を与える綺麗な若々しい女性だった。艶のある生地の白いブラウスを着ていたことをはっきり覚えている。「これが銀座の女の人かあ」と思ったことを覚えている。後から思えばその時彼女は30か31だったはずだ。

そのママは、自分で店を開く前は今では本にも映画にもなり伝説となっている銀座の名クラブ「エスポワール」で働いていて、そこで父と知り合ったのだそうだ。ママはそこに客として来た関取と恋に落ち、一児を授かりエスポワールを辞めたものの、関取は親方株を得るために後援会の推す相手と結婚を選び、彼女はシングルマザーとして男の子を育てるために自分で店を始めたのだった。

それから私は時々、夜遊びしていて仲間と別れて銀座まで行ける時は、そのバーに寄り道をするようになった。深夜になるとクラブで働いている綺麗な女性が遊びに来たり「流しの欽ちゃん」がアコーディオン奏者と二人で来て彼らの伴奏に合わせて歌ったり、銀座の大人たちがどんな風に遊んでいるのかを見るのが私には楽しかった。新宿や渋谷や六本木にはない銀座ならではの空気がまだ残っていた最後の時代ではないだろうか。

学生からお金なんか取れないわよ、お父さんから貰っとくからいいわ、あなたが社会人になったらがっぽり払ってもらうから、と言って、ママは決して私から金を取らなかった。後で父に訊いても、父にも請求していなかった様子だった。

父がその店に遊びに行って、新しい客を紹介したりした後には必ず、彼女から葉書が来ていた。その葉書はいつも彼女の驚くほど美しい文字で埋められているのだった。

そして私は社会人になり、こんどこそ自分で働いた金でママの店で飲むぞ、と力んでいたら、なんとママは店を閉めて銀座から消えてしまった。

息子が小学生になる。父親がいなくて母親が水商売の家庭なんて知れ渡ると(40年前の日本の社会で)息子がいわれのないどんな嫌な思いをするか分からない。だから私は店を閉めます。そして彼女は下町の中小企業の事務職に就いたのだと父に聞いた。私は自分が稼いだお金で彼女の店で飲むのだという夢をかなえることが出来なくなってしまった。

それから月日が経ち、私が30歳代後半になったころ、彼女は夜の銀座に帰ってきた。息子さんが社会に出る歳になり、もう彼も理解できるようになったから、と言ってまたカウンターだけのバーを開いたのだった。

私は40歳くらいになってやっと、自分が稼いだお金で彼女の店で飲めるようになったのだった。

「黄色い薔薇の花言葉ってなんだろう?」JAZZ喫茶のマダムが私に訊いた。
「なんだろう?考えたこともなかったです」
「嫉妬、だそうだよ」とマスターがスマホで調べて教えてくれた。
「斎藤さんのお父さんは、彼女に嫉妬してたのかしら?」とマダムが言った。

それから数ヶ月、年が明けて私は久しぶりに銀座のママの店に行った。

「あなたのお父さんが亡くなったことを報告に来てくれて以来だから、2年ぶりくらい?」とママは言った。銀座で平日にしか営業していないバーに、かつてはシンガポール、今は名古屋住まいの私が行く機会は限られてしまうので、そんなにもご無沙汰してしまったのだった。

「この間ね、名古屋のJAZZ喫茶のカウンターに黄色い薔薇が生けてあった」
「あなたのお父さんがよく持ってきてくれたわね」
「黄色い薔薇の花言葉って知ってる?」
「嫉妬でしょ?」
「親父はママに嫉妬していたのかな?」
「あなたのお父さん花言葉なんて気にする柄じゃないでしょ?私が黄色い薔薇が好きって言ったら、それから必ず持ってきてくれるようになったのよ」
そう言ってママは日本酒をグイっと飲んだ。ママは店では日本酒しか飲まない。
「あなたよくそんなこと覚えてたわね。私の部屋には今もあなたのお父さんが描いてくれた黄色い薔薇の絵が飾ってあるわよ」

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