本多さん

カプリチョーザの本多さんのこと

昨晩、家族でカプリチョーザというイタリア料理屋に食事に行った。

現在ではチェーン展開しているカプリチョーザだが、私の学生当時は、渋谷の場外馬券売り場の近くに一店舗だけ。予約を受けない行列のお店だった。オーナーシェフの本多さんとフロアを仕切る”しげ”さんの男二人で切り盛りしていた。

初めて行ったのは20歳の時、当時のガールフレンドが連れて行ってくれた。カウンターの席に座りあれこれ注文すると、キッチンから垂れ目のコックさんが、そんなに食べきれないよ、と忠告してくれた。それで少し品数を減らしたが、それでもまだ、多すぎるんじゃない?と言われた。私は、大丈夫です、と答えたのだが、出てきた皿を見てびっくり仰天。スパゲティー一人前は巨大などんぶりから溢れんばかり。普通の店の3-4人前はあろうかというヴォリュームだった。でもとても美味しかったので、結局全部たいらげてしまった。すると垂れ目のコックさんは、空になった皿を見て、”ふーん”という顔をした。それがオーナーシェフの本多さんだった。

美味しくて、お腹一杯になって、学生でも通える値段。それからは、その店が大好きになり、しょっちゅう通うことになった。少なくとも週に一回、多いと三日連続、なんてこともあった。二度目に行った時のスパゲティーは、一度目よりも更に量が増えているような気がした。それでも全部たいらげると、三度目、四度目、とどんどん量が増えていき、最後にはどんぶりからこぼれ落ちない物理的な限界まで盛られている、という感じになった。懐の寂しい時などは、男二人でスパゲティー1人前あとは”水!”なんて注文しても、それでもお腹一杯になるくらい盛ってくれて、食後のコーヒーはサービスだった。

当時カプリチョーザから歩いて行ける距離に、ただでビリヤードができるバーがあり、我々はお腹一杯になるとたいていそこに行って、ジントニック一杯で夜中までビリヤードに興じていた。24時頃になると、店をかたずけた本多さんがそのバーに顔をだすことも多く、言葉を交わすことも増えたが、一緒にビリヤードをしたことはなかった。

本人が自分の口から説明してくれたことはなかったけれど、本多さんは、60年代にイタリアで修行、大阪万博のイタリア館のシェフとしてイタリア政府から日本に派遣された、という驚くべき経歴の人だった。

ところがその後私は、就職と同時に地方の配属となり、カプリチョーザに行く機会はめっきり減ってしまった。そして丁度その頃、カプリチョーザがフランチャイズ展開する、という話が広まった。その話を聞いて、私はとても残念な感じがした。本多さんが金儲けのことを考え始めたのかよ、と思ってしまったからだ。その後しばらくして、久しぶりに渋谷の本店に行った時には、本多さんの姿も、しげさんの姿もそこにはなく、見たことのない若い店員さんが働いていてとても寂しい気持ちになった。ほどなくしてカプリチョーザのチェーン展開が始まり、店舗数は急激に増え、評判はどんどん広まっていったが、私自身は本多さんのいないカプリチョーザに行く気にはなかなかなれなかった。

そんなある日、本多さんが亡くなった、という話が耳に入ってきた。私にとっては寝耳に水だった。その時初めて、本多さんが不治の病におかされ、余命に限りがあることを宣告されたがゆえに、自分の味を誰かに託したのだと知った。

本多さんの愛車は3台。シトロエンSMとCX。それにポルシェ928だった。ポルシェはあくまで、シトロエンが2台とも不調の時のスペアだから、愛車とは言えないなあ、と笑っていた。

こんなことを思い出したのは、昨晩会計カウンターの後ろに飾られている本多さんの写真の横に、享年44歳、と書かれているのを見つけたからだ。私も1ヶ月前に44歳になった。本多さんが亡くなった歳に追いついてしまったのだ。本多さんが44年の人生で私を含む多くの人の心をどれだけ豊かにしたか。それどころか、亡くなっても尚まだその料理は、私の愚息も含む本多さんのことなど知らない多くの人々の人生を豊かにし続けている。

私のこれまでの44年は、本多さんにのそれとは比べるべくもないけれど、本多さんから教わった多くのことはこれからも私の中で生き続けていくだろう。そしてまた自分も、誰かの人生を少しでも豊かにすることができるように、という思いを新たにした。

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この文章は12年以上前の2007年8月31日に某SNSに書いたもの。

これを書いてからというもの、夏の終わりになると自分がこの文章を書いたことを思い出す。しかしその間に、私は当時必死で取り組んでいた仕事を追われ、家庭を壊し、何人かの人と決別しながら何とか生き延びてきた。本多さんより12年以上も余分に生きてきたけれど、誰かの人生を豊かにするなど程遠い12年だった。

しかしその12年に、決別したよりずっと多くの人に出会い、その出会いは私を豊かにしてくれている。そう感じるたびに、12年前にこの文章を書いた時の気持ちを思い出さなければと思う。

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