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画一化する世界に何を見よう|フィリピン紀行


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観光が誕生する以前から紀行文というのは存在していたらしかった。

旅をするだけでなく、日記という形で何かに変換する。

日記と紀行文は、その時々に感じた体験を叙述するという点において、共通する部分はあるが、それらが日常の空間でのものなのか、非日常で異空間で書き残されたものなのかという点で相違する。

ちなみに私は千葉雅也さんの「アメリカ紀行」が好きなのだけれども。

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逐一、旅の様子を記録するようになったのは、きっとこの頃からだろう。

約3年前、Instagram上で知り合った友人と初めて会ったその日にスリランカに旅をした。

それが私にとって初めての自分で航空券やホテルをとって赴く旅だったように記憶している。

そうして、私の初めての紀行文もここから始まっていた。

「夢を持つには余裕が必要なんだね。」

ともに旅をした彼女の一言が印象深くノートに記されている。

あの頃の私は、「夢を持たなければ!」なんて焦っていた。

しかし、途上国に来てみると、そもそも夢を持っているということは贅沢で、持つべきものではなく、持てることに感謝すべきものなんだと再認識した。

この時初めて、言葉を通して自らを破壊される衝撃を味わった。

当時は、タピオカがこんなに流行るなんてことはつゆ知らず、嬉しそうにココナッツジュース飲んではりますわ。

今ならこのココナッツジュースにもタピオカが入っているだろうか...。

そんな話はさておき、改めて観光学部として、5日間のフィリピン旅行をした。

お茶を片手に行きたてほやほやの旅と紀行文の関係についてすこしばかりおしゃべりしましょう。

今回の旅のざっくりとした感想としては、「アジアってどこも同じやな!」である。

徐々に発展を遂げるかつての途上国。

今や、それなりに物価も上昇し、インフラも整い始め、都市部では、わかりやすくモールが並び、スターバックスとマクドナルドは当たり前、その街中を闊歩しスマホをいじる、ずんぐりむっくりな富裕層。

しかしながら、2ブロックも歩けば、まだまだ靴を履いていないストリートチルドレンや物乞い、散乱するゴミがたくさん落ちている。

こうして、どの都市に赴いても著しく経済成長する街と追いつかない文化的態度が追いかけっこしているという画一化された世界が広がっている。

だから、今回の旅では、正直、外部からの刺激としての新しい発見や感動、もどかしさというものは感じられなかった。

車が反対車線を走っている光景にも驚かなければ、空気の汚さにも、貧富の格差にも、ストリートチルドレンにも、特に反応しないくらいには、見慣れた光景になってしまった。

「だけど、私の気持ちは本当にこれでいいのだろうか?」

そんなことをぐるぐる考えながら、スタバの窓からふと外に目をやると治安の悪い街が広がっている。

たった一枚窓を隔てただけなのに、300円のコーヒーを飲む私と1円のためにゴミを漁る少年。

この地に降り立った時、世界は画一化されつつあると思っていたけれど、それぞれが見ている世界は全く違うのだと改めて強く感じた。

別に「彼らは貧困だけど、子どもたちの目が輝いていて、しあわせそうでした!イメージが変わりました!」なんてことを言いたいわけではない。

そもそもしあわせなんて概念を持ち合わせていたら、全員鬱で死んでしまう。

これは憶測にしかすぎないが、彼らには、毎日お腹を満たして寝るという、ただそんな毎日が現実として繰り返されているだけなのだ。

そこには、物語もしあわせ神話も転がっていない。

その命が尽きるまで、淡々と繰り返される日々が来る日も来る日も繰り返される。

それは私たちだって同じだろう。

そんなことを、気付けば1時間もつらつらと日記に記していた。

紀行文は、非日常な異空間で、時折日常という現実を見せ、世界は格差で溢れている、画一化なんてほど遠いのだという残酷さを見せつける

しかし、紀行文がなければ、私は、「ああ、世界って同じようになっていってしまうんだな。つまんない。」みたいな感想を持って帰国していたことだろう。

紀行文には、私は聖人君子ではないことも突きつけられる。

だって、ストリートチルドレンがお金を要求してくる現実を目の前に、週末のデートがたのしみだなんてことを日記に書いてしまうのだから。

それでも、やっぱり現実は現実として目の前で進む。

旅をしている中で、あまりにも悲観的になったり、物語的に解釈しすぎると、現実を直視できなくなる。

だから、インスタのストーリーではなく、日常の延長線上に続く日記に紀行文を綴る。

紀行文というのは、旅に出た時の高揚感や非現実的な思考と現実世界に引き戻し己の脆弱さを突きつける、そんな橋渡しのようなものなのだろう。

それは、わたしたちを観光者から旅人へと世界へいざなう。

つまり、自己を破壊し、再構築するというプロセスをたどるための地図であり得るのかもしれない。


友人とシーシャに行きます。そして、また、noteを書きます。