交わって流れた10日間 - 日中当代表演交流会 レポート
「日中(中日)当代表演交流会」というグループを組織して、第1回のイベントとしてディスカッション&ワークショップを北京・南京・上海で行ってきた。結果的に、すごくいいイベントになったのではないかと思うし、なんだか、みんなで旗揚げ公演をしたような感覚を覚えたのも嬉しい。この活動について、少し長く記したい。
(萩原雄太)
準備
たしか昨年の夏だか秋だか。僕がNYに滞在しているとき、北京の振付家・王梦凡(ワン・モンファン)から唐突に「日中の交流会をやらないか」という連絡が来た。彼女とは2018年のテアタートレッフェンで一緒になって、その後も仲良くさせてもらっている間柄。すぐに「いいね、やろう」と返信した。ただし、彼女はたまに思いつきであれがやりたい、これがやりたいと言うことがあったので、この「いいね」というのは「まあやってみてもいいかもね」というくらい。あまり本気にしていなかった。しかし、上海のキュレーターである张渊(ジャン・ユアン)を誘ったからミーティングをしようという話になり、どうも本当にやるらしいことに気づく。
张渊とは、2021年、YPAMフリンジセンターで小さな作品を出していたのを見た縁で、オンラインで少し話したことがあった。もちろん、そこまで詳しく知っているわけではないけれども、信頼できそうな人間だったし、オンラインで再会して話をすると、なんだかウマが合いそうな気がする。そして、誰かもうひとり日本人がいた方がいいね、ということになって、山本卓卓くんにお願いした。僕と彼の作風はまったく異なるのに、根本的な部分はとても似ているのがおもしろい。
そうやって座組が決まってから半年ほど、我々は毎月1人ずつ、1時間ほどの自己紹介をした。
梦凡は引退したバレエダンサーや広場舞をするおばさんなど、プロのダンサーではなく、素人の人々とともに作品をつくってきた。また、近年は、身体の無意識にアプローチし、そこから生み出される言葉に注目した作品を作っている。
张渊は、キュレーターとして、中国の独立劇場のオルタナティブな歴史についての展示をつくったり、Being in Asia という企画では、contact gonzoを含め、いくつかのアーティストを招聘しながら、アジアにおけるパフォーミングアーツの役割を考えてきた。
山本卓卓くんは、範宙遊泳という劇団を主宰する劇作家、演出家、俳優。絶望しきっているのに、だからこそ希望の方を見つめる劇作が特徴な作家だと思っている。また、文字を「肉体」とするような演出が特徴的で、中国でも公演を行っている。
そして、原発事故の後に「福島でゴドーを待ちながら」という作品を上演したり、日本国憲法を使った作品をつくったり、最近は電話回線上で行われる演劇をつくっている僕。
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それぞれ、過去にどんな作品を手掛けたのか、そもそも自分はどんなことをしたくて、何に興味があって、何を美しいと思っているのかなどをシェアしながら、少しずつお互いについて知り合っていった。
それと同時に、イベントの枠組みについても話し合っていく。
「中日当代表演交流会」という名前についてはあっさり決まったような気がする。日本語では、例えば「日中コンテンポラリーパフォーミングアーツ交流会」としてもよかったけれども、だいたい理解できるんじゃないかと思い「日中当代表演交流会」でいいよね、という話になった。もちろん、僕と山本卓卓で日本を、あるいは张渊と梦凡で中国を代表することなどできないし、したいと思わない。だから、ここにある日中あるいは中日という言葉は、国籍としての日本と中国ではなく、われわれの間にある差異としての日/中のことなのではないかと思う。
また、今回のイベントのテーマを話し合っていたところ、「我们的身体 わたしたちの身体」というテーマが採用された。そもそも、梦凡が興味を持っていたのは、わたしたちの身体の「アジア性」とでも言うべきものについてだった。ドイツで7年間暮らしていた経験がある彼女は、だからこそ、自分と彼らの身体の間に大きな差異があることに気づくと同時に、自分の身体はどのように成り立っているのかに興味があり、チベット仏教やチベット医学などから身体の探求を行っている。そのような問いが出発点にあったため、このテーマはたとえば「亚洲的身体 アジアの身体」もしくは「东亚的身体 東アジアの身体」といった形になることも考えられた。けれども「アジア」といったときに感じられる胡散臭さや、「ヨーロッパ(あるいは西洋)ではない」という含意はわたしたちの本意ではないし、そもそもわたしたちは決してアジアを代表する存在ではない(もちろん日本、中国という国籍も代表しない)。だから、話し合った結果「わたしたちの身体」というテーマが採用された。
さて、わたしたちの身体とはなんだろう? はたして、それをどんなワークにすればいいだろうかと、年明けに梦凡が東京に来たタイミングで、卓卓くん、僕と話し合いながらワークの構想を考えていった。梦凡は、樹木の絵を描きながら、樹木の下の地面に埋まっている根っこの存在に着目しているようだった。
北京へ
2024年4月10日から北京に入った。
はじめの2日間は、北京郊外・西山の方にあるとても広い家に住んでいる梦凡の家でみんなで合宿しつつ、ディスカッションの構成などについて話し合う。といっても、レクチャーの内容やディスカッションの構成について話し合っていたはずが、すぐに横道に逸れてお互いの思考に対する質問大会になったりする。アジア=農耕民族、西洋=狩猟民族という図式について、「でも西洋人だって農耕してるじゃんね」と僕が話すと、张渊は「ほんとそれ!」と握手したのを覚えている。また、普段、僕は自分の考えを「公共性」から説明しているのに、今回そういう話はほとんどせずに「魂」の話をしていたのも印象深い。「魂」といっても、それは「spirit」とか「soul」という言葉では表せないもの(英語で表せないものは、通訳の冰清や梦凡のパートナーの原田さんに通訳してもらったり、漢字から類推したりする)。中国語で「灵活(霊活)」という言葉があるらしいけれども、説明を聞いてもそれとも少し異なる。つまり、ひどく込み入っているくせにまとまっていないので、普段はカンパニーのメンバー以外にはほとんどしないような話をしていたのだ。
その他、徒歩圏内にある中間美術館に散歩に行ったり、食事をつくったり、めいめい勝手に瞑想をしたり、仕事をしたり、読書をしたりと、ゆるやかな時間を過ごす。春の北京では、柳の木が綿毛を産み、それが風に乗って、街の至るところを舞っている。それは、どこか牧歌的というか、あるいは幻想的というか。
イベントの前日、僕らは、いったい何をしようとしているのか? この交流会はなぜ行われているのか、ということについて、梦凡がどうやって説明しようか考えあぐねていたので、一緒に考えていた。
「日中当代表演交流会」を英語にすると、「Japan-Sino Contemporary Performing Arts Exchange Project」になる。けれども、僕らが何かを「Exchange」したいかといえば、ちょっと怪しい。僕らは、別になにも交換したくないし、交換するものも持たない。むしろ、その背景に「価値」という言葉を内包している交換をベースにしたアイデアにほとほと疲れ果てている。
中国語でも、交流は、日本語とほぼ同じ意味を持っている。僕らは、Exchangeではなく、「交流」という言葉から考えるべきじゃないか。4人の流れがたまたま交わった場所が、たまたまここだった。交わったことによって、もちろん何かのやりとりがなされるだろうけれども、それは事後的にわかるものでしかない。
そこに、僕らの特異点がある気がする。かねてから、日中を含めたアジア圏内のアーティストの交流活動は積極的に行われてきた。それらの背景には、たとえば「アジア人としてのアイデンティティの構築」であったり、「マーケットやプラットフォームの整備」ということが念頭にあったように思う。多分、僕(ら)はそのようなあり方を目指していない。意識的にも無意識的にも、外部にある西洋の影響を感じながらの集まりではなく、近所に住む人同士で勝手に遊んでいるようなイメージなのではないか(もちろん、それは、僕らの活動が無意味であると言いたいわけではない)。
さて。
交流会の活動は2日をかけて行われる。1日目にレクチャー&ディスカッション、2日目にワークショップを、それぞれ4時間かけて実施。これを北京の中間美術館、南京大学、そして上海のYOUNG劇場で行う。
レクチャーは、まず梦凡による「交流」についての挨拶のあと、僕が1時間ほど日本の演劇における身体の歴史について話す。言及したのは鈴木忠志、太田省吾、土方巽、野口三千三、ダムタイプ、平田オリザ。2000年代に入り、岡田利規、手塚夏子の後に、僕と卓卓くんの作品を紹介した。そもそも、僕はアーティストなので、正しい歴史は語れず、あくまでも語れるのは個人的な偏った視点だけ。そこで、自分が影響を受けたものを並べたというエクスキューズと、女性や先住民、在日といった人がいない、という前置きのもとにこのようなラインナップを紹介した。
僕の次に、卓卓くんによる自分がいま考えていることの紹介をする。身体、精神、想像のバランスをどのように取るか、という視点から構築される彼の考えを紹介しつつ、3次元におかれる身体のみならず、高次(あるいは低次)にある意識との関わりといった話をした。
その後、张渊によるレクチャーは中国独立(インディペンデント)劇場30年の歴史を、彼の視点から第1世代(50年代-60年代生まれ)、第2世代(70年代-80年代生まれ)、第3世代(90年代)と区分けして、その特徴を紹介する(彼もまた第1世代のつくったグループである「組合嬲」に参加している)。僕にとって、名前を聞いたことがあるのは文慧と、ペーパータイガーのみ。言われてみれば、まったく中国のインディペンデントシアターについて何も知らない。张渊は、僕が提示した日本の歴史を引き合いに出しつつ、「わたしたちは身体を持っているだろうか?」という問いかけでレクチャーを閉めた。
その後、梦凡が観客と舞台の間で生まれる「第三身体」や、無意識から生み出される言葉を生み出す「身体文本」といった彼女の考え方を簡単に紹介した後に、会場から出た質問に答えつつ「わたしたちの身体」を巡る1時間半〜2時間ほどのディスカッションをしていく。
いったい、こんなに特殊で抽象的な話はどこまで伝わるのだろうか?
中間美術館のレクチャールームで行われたレクチャー&ディスカッションは、とても熱心な観客に恵まれた。無料とはいえ、70人あまりの観客は、日本文化に興味がある人が多いけど、日本の演劇を見たことがある人は少ない。あまつさえ舞台芸術のなかでもさらに特殊な表現についての話をしていたのに、彼らは熱心に耳を傾けていたし、例えば宗教性についての質問が上がったり、コロナ禍における身体性についての話がなされたり、とても注意深く理解しようとしているのがわかる。こういう場での自分にしては珍しく、ものすごく喋ったし、喋り足りなかった。
終わった後に「ここから始まる」と、卓卓くんが言っていた。それは、僕らの活動が始まるという意味だけでなく、観客を含めた「わたしたち」が始まるような気がした、と言ってしまえるほど、何か手応えのようなものを感じることができた。余談だけれども、中間美術館のディレクターで、今年の横浜トリエンナーレのキュレーターを務めているキャロルさんも見てくれて、すごく喜んでくれていた。
北京でのWS
翌日、梦凡の家で行われたワークショップには、10人ほどが参加した(10人がワークショップに参加できるくらい広いのだ)。参加者は、ダンスや演劇のプラクティショナーだけでなく、研究者や単に身体に興味がある人など。そのうち、男性は3人。日本と同様に、中国でもワークショップの参加者はやはり女性が多いという。
ワークショップは梦凡のパートからはじまる。まず、参加者がみんな床に寝そべって、梦凡の指示に従っていく。例えば、その指示は「身体の左側の輪郭をなぞる」というイメージだったり、「皮膚がなくなる」というもの、あるいは立ち上がる姿をじっくりと想像した後に実際に立ち上がるもの。その指示に従っているととても心地よくて、つい寝てしまいそうになる(実際、卓卓くんは2回いびきをかいて寝ていた)。
その後は、僕のワークになる。車座になり、参加者に「死んだ後、どうなるだろうか?」という問いを投げかけ、しばらくそれについて話した後、日本から持ってきた煮干しを配る。この部屋の中にこの煮干しを安置する場所と、それを弔うためのシンプルな儀式をつくってほしい、というオーダーである。そして、つくられた簡単な儀式を、まず本人が遂行し、次に別の人が再現する。時間的にすごく短かったので、少し雑になってしまったものの、いくつかの儀式はとてもよくて、真摯に考えてくれたのがわかる。実はこのワーク、かつて実施したことがあり、その時はまったくうまく機能しなかったのだけれど、今回は結果的にとても上手く機能した。
最後に、卓卓くんのワークは、参加者にお気に入りのものを持参してもらい、それを参加者同士でシャッフル。その後、物が持つ「心の声」を聞く時間を取った後に、実際に物に成り代わって他の人と会話をしていく。別の言い方をすれば、物の魂を想像し、魂を自分の身体に宿しながら、そのモノとして話をするワークである。
14時から始まったワークショップは18時頃に終わって、そこから2時間くらいフィードバックとかコメントの時間となったと記憶している。どうしてこういうフレームにしたのかという質問だったり、感じたことをシェアしてくれたり。张渊が交通整理してくれるのでやりやすい。三者三様、それぞればらばらのワークなのだけど、3つを通して体験すると、身体に対する少し変わった角度からの視点を得ることができる。例えばそれは「想像が身体を越境させる」ということ言えるかもしれないし「『魂』のようなものを巡って行われたワーク」だったようにも思う。きっとそれは、僕らが考える「身体」の輪郭なのである。
こうして、北京でのワークショップ&レクチャーは終わった。
南京へ
空港かと見紛うばかりに大きな北京南駅から、高铁(中国の新幹線)で4時間弱で、南京に到着する。そこから、30分の間に5回ほど肝を冷やすような絶望的に運転が荒いタクシーで30分、中国でも屈指の大学であるらしい南京大学は、とんでもない敷地面積を持っている。郊外に作られた、おそらく新しいキャンパスであるからといって、キャンパスの中に山を抱えなくてもいいだろう。
南京大学は、優れた劇作家が排出されることで有名らしい。また、学生会館の中には学生が管理しているブラックボックス劇場が存在している。そこは、エレベータの音やオーケストラの練習音が入るために、劇場としての環境はよくはないのだけど、学生たちによって使い込まれていることが一見してわかるとてもいい空間だ。
30人ほどの学生が参加したレクチャー部分は、北京から少し不明瞭なところを修正してわかりやすく改訂したのだが、演劇に対する基礎知識がある人たちなのでやりやすかったし、日本の演劇も乌镇戏剧节などのフェスティバルやbilibiliなどの動画サイトで見ているらしく、一定の理解があるようだった。一方、中国の独立劇場の歴史を語る渊の口調は少し強かった。現代美術とクロスオーバーするフィールドでパフォーミングアーツを見ている彼は、中国の近代劇(現代劇)の影響力の強さに苛立っているようで、学生たちにもその危機感を共有したいと思っているらしい。文字通り「舌鋒鋭い」という感じで、(いい意味で)挑発的なレクチャーだった。
ディスカッション部分で、ファシリテーターを務める张渊は、言葉に関する問いへと話を振った。梦凡の身体文本という考え方を紹介したり、確か卓卓くんともテキストという話をしていたのではないか(うろ覚え)と思う。学生たちから出てきた質問としては、例えば、アングラとマルクス主義との関係、日本の小劇場で現在トピックになっていること、あるいはサイトスペシフィックパフォーマンスと社会問題についてといったものがあがった。理解も知識も一定以上あるとはいえ、歴史的なコンテキストを共有していない人々に、通訳を交えながら質問内容を共有していくことは、やはりちょっと難しい。素朴な意味で、わたしたちは歴史を共有していないのだ。
4時間のレクチャー&ディスカッションはあっという間に終わった。先生いわく、他の授業を休む許可を得て、このディスカッションに参加してくれた学生も多かったという。例えば日本の大学でこのような催しをしたとして、どれくらいの学生が参加をするだろうか、と考えると、とても心もとない気がするのだが……。
翌日。ワークショップは、ブラックボックスで行われた。
今回、僕のワークはもう少し丁寧さを大事にしようと思い、参加者全員が発表することを目指さなかった。それよりも、ひとつひとつを全員が丁寧に見て、それの再現もまた、丁寧に観ることを目指し、それを質感という言葉で説明した。しかし、血気盛んな学生たちだからか、あまりうまく行かなかったのが正直なところ。どうしても、個人的な儀式に対する向き合い方ではなく、パフォーマティブになってしまったり、とてつもなく優秀な学生たちだからか、意味を重視するような分析的なコメントだったりと、ちょっと意図とはズレた方向になってしまった。どうしたものかな……と思い、3人のワーク終了後、フィードバックの時間に、「聞く」ということの重要性について少し話した。
くたくたに疲れつつ、ワークショップ後に南京大学の先生たちとご飯を食べていると、梦凡のWeChatに、参加した学生から僕らと相談したいという内容が来たということで、ホテルのロビーで僕と梦凡と学生で話をした。それは、すごく強い刺激を受けた(かつ、やりたいことと似ていた)のだけれども、うまく消化することができない、という内容だった。聞くことの大切さとか、何もしなくても大丈夫ということとか、そういう話を手を変え品を変えしていると、気づけば2時間ほど話をしていた。梦凡が彼に対して「グッドアーティストになれるよ」と言ったのを、僕は「僕らの考えがグッドかどうかはわからないけどねえ」と混ぜ返した。
上海へ
上海では、少し郊外にあるYOUNG劇場という場所でレクチャーを行った。
张渊の生まれ育った地区にあるこの劇場は、昔から地域の劇場として親しまれてきたが、最近は海外の招聘なども積極的に行っているという。確かに、シーズンパンフレットを見ると、ベルリナーアンサンブルが来たり、スイスらしき出自のカンパニーの名前なども見える。なお、YOUNG劇場ってなんてダサい名前なんだろう! と思っていたのだけど、若いというだけじゃなく、杨浦(Yangpu)区にある劇場という意味も込められているらしい。
この劇場には1000人収容の大劇場もあるのだが、もちろん僕らが使うのはそんな大仰な場所ではなく、上階にある绿匣子というという150席あまりのブラック(深緑)ボックス。大型のLEDビジョンが据付になっていて、ロールバックの観客席が設置されている。文句のつけようのない劇場である。
ディスカッション&レクチャーには50人あまりの観客が来た。しかし、劇場が持っているトークイベント用のしっかりとしたソファが用意され、ぱっきりと客席と別れているのはどうも居がよくない。開演時間も押すということで「日本の演劇見たことある人いる?」というくすぐりからはじめてみた。鈴木忠志や岡田利規、宝塚などとともに、なんと先日卓卓くんが書いた東京輪舞を見てきた(しかも5回も!)という人がいた。劇作家冥利に尽きるだろうな。
レクチャーについてはちょっとずつマイナーチェンジをしている。もちろん、正確な情報を語ることはおろそかにしないものの、本質的に「歴史」を語ることにはあまり興味がない。それよりも、自分の考えを語ること、あるいは自分の考えを語るために歴史を使うことのほうが、遥かにやりやすい。そのため、2010年代のパートについて、この交流会が始まる前は一応現在活躍するいろいろなプレイヤーについて言及しようとしていたものの、上海での最後のレクチャーではほとんど自分の話しかしなくなった。つまり、東日本大震災と原発事故がどのように自分やその創作を変えたか、ということ。
この日の参加者は多分、プラクティショナーが多くて、創作方法についての質問が多かった。なんとなく、僕と卓卓くんとの間には大局的なことは僕が言う、具体的なことは卓卓くんが答えるという感じの棲み分けがある。具体的な悩みについての質問に答えるときの卓卓くんの答え方が、信頼できる兄という感じでいい。卓卓哥哥(兄貴)である。
会場からたくさんもらった質問のなかで、卓卓くんが答えたのが「他の世代との対話はあるか?」「漫才とかコメディについてどう思うか?」「日本の学生演劇についてはどんな感じか?」。一方、僕が答えたのは「コロナの後にどのように創作をしていくか?」「創作を個人の小ささに閉じ込めないためには?」というようなこと。「上海の人を前にコロナについて語るのは気が引けるけど……」と前置きしつつ、私的領域について、あるいは私の小ささを肯定することについて話したりした。また、梦凡から中国と日本の(反)近代化の共通点みたいなことを聞かれた。共通点はわからないけど、岸田國士が戦時中に大政翼賛会の文化局長になったり、近代劇が戦前とのつながりを持っていた。アングラのような運動は、それを断ち切る意味もあり、反近代を志向したんじゃないかという話をした。
終わった後、幾何学模様(バンド)が流れる「歌合戦ビアホール」というお店で打ち上げをしていた時、张渊に対して、「なんで、そんなにシーンを変えたいの?」と質問をしたら、隣りにいた梦凡が、代わりに「张渊は寂しいんだよ」と答えた。例えば、として話していたのが、中国では、いまだに岡田利規よりも鈴木忠志のほうが有名なのだという(言外にある意味を察していただきたい)。つまり仲間がほしいのだ。
日本は日本でかなり本質的に問題があるような気がするけれども、僕は、東京の演劇シーンを変えようという気持ちはあまり持てない。ここが「悪い場所」であるとは思いつつ、それでもなんとかやっていけてしまう。だから、変えていくことをサボっている。それは長期的に見ると、ほんとうによくないことだと思う。
以前から张渊は、僕がタバコを吸うと嫌だ嫌だと離れていくので、タバコが本当に嫌いなのかと思ったら、禁煙中なだけだったらしく、一本くれ、と言われて一緒にタバコを吸った。吸いながら次の日本での交流会について話をする。果たして我々の活動を受け入れてくれて、かつ宿泊とかギャラとかを支払ってくれる組織が日本にあるかと言われると、僕は思いつかない。
ちなみに中国では、
中間美術館=会場の無料使用(と、受付周り)、ギャラなし、宿泊なし
南京大学=会場の無料使用、宿泊あり、ギャラあり
YOUNG劇場=会場の無料使用(と、受付周りおよびテクニシャン)、宿泊なし
という条件だった。「本来であれば持ち込み企画であっても、会場側がギャラを支払うべきだと思う」と张渊は言っていたが、会場の無償貸与という時点ですでに、日本ではかなりハードルが高いような気がする……。
さて、翌日は最後のワークショップ。民間のヨガスタジオのような施設を使う。僕のワークは、南京ほどではないけど、少し不満が残る出来だった。後から、やっぱり無理矢理でも全員が発表できる仕組みにしたほうがいいなと思ったし、受け渡す仕組みもちゃんと大事にしないといけないと思った。ただ、じっくりと人の身体やそれが発する質感に向き合うのは、とてもいい時間だった。卓卓くんのワークでは、少し構造を変えたので、みんながやりやすくなり楽しくも身体の意味が変わるような時間となった。結果的に、とてもいい形になったのではないかと思う。
WSの最後、フィードバックの時間に、今回の活動で得たもの、創作に反映させられるものを聞かれて、僕は「中国に、こんなにも信頼できる人がいること」と答えた。僕の活動は当然そうだし、僕よりもはるかに射程距離の長い卓卓くんの作品やそこに込められたものですら、とても僅かな人々にしか届かない。しかし、この僅かな人は、この世界中にきっといて、それを必要としている人もいる。そのような人々と出会い、彼らの理解を信頼すること。僕にとって、その信頼の深さは、作品を魅力的なものにする何よりのものだと思っている。
ワークショップが終わって、翌日は帰国日だったものの、僕は1泊だけ延泊し、上海動物園に行ったり、友達に会ったりした。すると、ワークショップに参加していたAliceとRolandから、話したいとメッセージが届く。彼らはたまたま、死をテーマにした作品の構想に乗り出したばかりであり、僕のワークがたまたま死を巡るものであったことに驚いたという。どんな作品をつくるのかはよくわからないけれども、ワークショップ中の彼らの手付きはとても好感が持てたし、とてもマジメに演劇に取り組んでいるのが伺い知れる。22時に集合し、夜中の1時半まで話していた。Aliceは、長くフランスで暮らし、中国に戻ってきたばかり。フランスにも居場所がないし、中国にも居場所がないし、という状態く、同じくヨーロッパに長く暮らし、帰ってきてから中国で活動している梦凡のことを尊敬しているという。「近いうちに、一緒に何かできたらいいね」と言い合って別れた。
まとめ
と、このような形で、「日中当代表演交流会」の初めての活動は終わった。劇場やフェスティバルなどの組織的な後ろ盾はまったくないし、ついでに言えば僕らに支払われるギャラもない(ひとり8500円ずつ赤字を補填した。劇団みたいだ!)。では、なぜこんなことをするのだろうか?
昨年、NYに滞在した。その時に思ったのは、偉大なる前世代の後の世代が抱える苦しさであった。20世紀中盤から後半にかけて、NYは舞台芸術においてとても偉大な功績を成し遂げた。しかし、その功績が偉大であるあまり、その重圧が次の世代に身動きをとれなくしているのではないか、と感じた。わざわざこんなことを言うのは、NYという街をディスりたいからではなく、きっと東京も似た状況だからだ。これまで素晴らしい実績を積み上げてきたからこそ、高いプライドを持ち、本質的に変化をすることができない。それは、どこか、だめな中年男性に似ている。
それに比べて中国は最高だ、とも思わない。张渊の苛立ちからわかるように、きっと彼らは僕ら以上に苦しい状況に直面していて、本当にまずいと思っている。だからからこそ、彼らは外から来たものに対して何かを学び取らなきゃならないし、学びを受け入れるための好奇心を強く持っているのかもしれない。なんとなく、魯迅の顔が思い浮かんだ。
ほかの日本の人々にそれがあるのかどうかはわからないけど、少なくとも、自分にはそれが欠けているような気がしてならない。
繰り返しになるけど、わたしたちは、ただ流れを交わらせただけであり、何の交換も予期していない。でも、こうして流れが交わった結果、やっぱりどこか僕の発想は少しだけ変わってしまったような気がするのだが、「こう変わった」「こうしていかねばならない」と名言したとたんに、それから外れてしまうような気がする。だから、こうやって滞在中に起こったことをだらだらと書き記している。
10日間を中国で過ごした。多分、来年は日本で開催するだろう。こうして、いくつかの流れが交わったり、交わらなかったりしながら、もうちょっとだけ大きな流れができるといいなと思う。だいたい、大きな川のほとりに、文明は生まれてきたのだし。
中日当代表演交流会 第1期
『我们的身体 わたしたちの身体』
2024年4月13日 - 4月21日
北京·南京·上海
联合发起/策划|王梦凡、张渊、萩原雄太
邀请艺术家|山本卓卓
现场翻译|冰清
视觉设计|王江
协力|原田僚太郎
支持方|
北京中间美术馆
北京日本文化中心(日本国际交流基金会)
南京大学文学院戏剧影视艺术系
上海YOUNG剧场
交流会活动日程|
# 北京站
4月13日 周六 14:00-17:30 讲座·对谈《我们的身体》
中间美术馆会议室
4月14日 周日 14:00-19:00 创作工作坊《从哪里开始是“我们”》
行走剧场工作室
# 南京站
4月16日-18日 讲座·对谈·工作坊
南京大学文学院戏剧影视艺术系(不对外开放)
# 上海站
4月20日 周六 14:00-17:30 讲座·对谈《我们的身体》
YOUNG剧场绿匣子
4月21日 周日 14:00-19:00 创作工作坊《从哪里开始是“我们”》
星域 Starry Space