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企画のたね | マルレーベル

(実家の猫)


加茂慶太郎です。
演出家・俳優です。

演劇プロジェクト  マルレーベルを運営しています。
マルレーベルは、企画と企画者の集合体です。(企画者はいまのところ加茂一人ですが)


レーベルでやるかは分かりませんが、思いついてから何度も頭のなかで裏返して眺めて、やっぱりやってもよいのではないかと思っている企画(プロジェクト)が4つほどあるので、書いておきます。
おもに、演出家としての思いつきだと思います。



*  *  *

(以下、企画タイトルはあくまで仮です)



1.ミート・ミート

古典戯曲を創作参加者みんなで立ち上げる。
今の私たちの身体で、いにしえの身体に出会いにいくイメージを込めて

▶いま「光景」でやっている、一つ一つの取り組みを参加者の合意をもって進めていくことの、”戯曲がある”版。「ここの〇〇ってこういうことかな/こうすると面白いかな」など、戯曲を元に演劇を立ち上げる取り組み。(それって、いたってフツウのこと!?)


「ロミオとジュリエット」や「三人姉妹」など、わたしはこれまで観たことがない(けど”当たり前”な)作品が多く、それに触れたい¹。
『この作品を、こう作ったのか』という、”有名作品を独自の解釈や演出で立ち上げる、それを観る、語り合ったりする演劇の楽しみ方”を自分もしてみたい²。
これらの願望も含んでいます。



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2.P行列

まちなかに行列をつくる。
なにもないところで人がひとり、ふたり……と列をなし、やがて解消する。

▶例えば、今日は開くはずのない店休日の定食屋に、行列ができて、やがてなくなる。
特になんてことのない公園の片隅に、行列ができて、やがてなくなる。
1時間とか2時間とか、ときにはもっと時間をかけて。
行列によって、場所の見え方が変わる、のではないか、というシンプルな着眼から。


演劇を劇場の外にも持ち出したいという願望を持ってはいます。
どこここで、いくらで、機材とかも組んで、という気合の入った野外公演ではなく、もっと溶け込んでいる演劇をみたい。
途中から見ても良い、気づかなくてもいい、そんなもんでもよい。
これはその1パターンとして、すごく野良で、ちょうどよい温度感でまちなかに演劇を持ち込めそうだと思っている。

そして、これはいろんな都市に持っていくことができるのではないかと思っている。



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3.人々

演劇公演を開催する。演劇作品を上演する。
その出演者・演出家、その他スタッフ含め誰一人として、その名前がどこにも記されない。

▶ふつう、芝居の出演者は名前がクレジットされる。
出演者はその評価で次に繋がるなにかを得るかもしれないし、ファンに見逃さずにいてもらえるし、ファンも見逃さずに済む。
芝居の信用にもなるし。
それをなくしてみる、経済に歯向かってみる取り組み。
たぶん宣伝とかもままならない。「自分が出てます」って言わないし。
身体(顔や声なども含む)しかアイデンティティを示すものがないってどういうことなのか。
それで立ち上がるものを眺めてみたい。
打算のない野生が見たい。
俳優の有名・無名、知人の多い街・いない街、なにか変わるだろうか。
観ていて、満足度に変化があるだろうか。


エッチなストリーミングサービスのことを考えていて思いつきました。
そこに映っている人は、ニックネームすら分からないかもしれなくて、でも顔も身体もたぶん晒していて、自分は知り合いじゃないですけど、誰かこの人の知り合いが観ていたりするんでしょうか、という感じで。
強烈なアイデンティティを見ているはずなのに、その人のことをなにも知らない気がしてしまう。
いやほんとに知らないし、知らなくてぜんぜん構わないのだけれど。

身体一つで、ほんとうに存在できていることになりますか?という問い。



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4.TYO/○○○ '●● (例:TYO/FUK '23)

その土地で暮らす人たちに、《物理的な土地として、あるいはイメージとしての東京(トーキョー/tokyo)観や、東京(トーキョー/tokyo)との関係性》についてインタビューし、舞台芸術として再構築する。

▶人と土地と日本のアーカイブになるのではないか。でもアーカイブならば、インタビューのうち、ピックアップする箇所に演出が入ってはならない。だから演劇にする場合はアーカイブにはならない。
原点には、シンプルに「聞きたい」っていうのがある。
自分はかなり、東京っていうものになんとも言いがたい特別な感情を持っている気がする。コンプレックスでもあるかもしれないし憧れかもしれないし、でも忌避もしている気がする。
大阪や京都にもないことはないけど、例えば佐賀や奈良や埼玉には全くそういうものはない。(さげる意図は全くないです)
これは、これまでの人生での関係値の問題だとおもう。
そして、多くの人が、ほとんどの人が、東京との関係値がゼロではないのではないかと思う。


東京という街が、いろんな土地のいろんな人々とどういう関係を持たれているのか、う〜ん、気になる。これが福岡とかでは意味をなさない。
自分や、この国のこと、自分と社会との関係性を捉え直すきっかけや材料のひとつとなりえないだろうか。

たぶん、過去のこれを観ても、なんの足しにもならない。
映画とかにして残しても意味がない。
資料にすらならない。
今の、そこの人は、こんな感覚を持っているんだなというのを、劇場で体験として受け取ることができたら、すっごくすっごく楽しいことだと思っている。



*  *  *


ぼくはアートの勉強をしなくちゃいけない。
ほとんど分かっていない。

いまは、例えば戯曲を書いてなにかを描こうとする、なにかを問う、あるいは演出で新たな見え方を提示するとかではなく、こういう企画まるごとのサイズを使ってなにかを検討することに関心がある。
これは、演劇をしているというより、演劇を用いてアートしようとしている、のでしょうか?



いまちょっとてんてこまいでなかなか着手できないのと、来年は自分ひとりでできるサイズで、検討したいことを検討してみようかなと思っていたりするので、まずは自分サイズでアートしていきたいなと思ったりしているので、ここに書いたこと、もし実現するとしてもしばらく先になると思います。

もし、動き出したら、お、と、乗ったり、あるいは眺めたりしていただけたらと思います。



おしまい