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高校苦登校から脱出したが2回休学した男が半生を語る❶

人生、踏んだり蹴ったりだな。
簡単なステータス
19歳/私立幼稚園(孤立、歪み)→公立小学校(あまりに泣き虫、いじめ)→公立中学校(途中から孤立、歪み黒歴史厨二病、この頃から社交不安)→公立高校(進学校落ちこぼれ、ガチ友達0人、苦登校、親との不和、腹痛、受験はなんとかやり切る)→文系私立大学1年生(一人暮らしが苦痛、授業よくわからんけど聞けない、後期休学)→2年復学も体調の波と格闘/過敏性腸症候群(疑い)/社交不安障害

※赤裸々な姿を語るのでエログロ・愚痴の内容、支離滅裂な思考・思想が混じっていることをお許しください。

 「うわ、まためんどくせえメンヘラの聞いてもない自分語りが来たやん…通報しよ」とか思われるのは承知の上だが、この記事は(まためんどくせえ自分語りなんてするな)、小学校ではいじめに遭い、熱をしょっちゅう出し、中学ではクラスで孤立し、進学校だった高校では勉強についていけず、腹を下し嘔吐し、人と話すこと、生活すべてが恐怖になり自殺願望すら覚えるも、それでも周りに支えられて懸命に全日制高校を卒業するが、大学のシステムと一人暮らしに戸惑い、尚前期を耐えたが後期に限界を迎えて休学し、東京のアパートを解約し現在居心地も悪い(精神的な意味で)実家暮らしの大学生の男が、何故今こうなってしまっているのか、いや必然だったのか、もがきながら、文を紡ぎながらそれでも折れぬ意思を貫く、まさに波瀾万丈の物語である。自己分析(自責ではない!)をして自分の人生の総括することによって将来への糧ともしたい。

出生〜幼稚園──手のかかる子供

僕は栃木のどちらかと言えば大分南の方に生まれた。元気な男の子。生まれた時は重い方だった。日齢1日で、3124グラム。今の状況(48kg/170cm)からしたら全く想像がつかない。どうやら爆誕してしまったようである。僕はいったいどのような子どもだったのだろう。今僕記憶も薄れてはいるが、親の証言も参考に私というものを理解してみようと思う。

 おそらく感情表現が苦手だったのであろうか。気に入らないことがあっても言葉に出して伝えることは出来ず、すぐに泣いてしまう厄介な奴だったことを覚えている。欲しいものは沢山あり、買って貰えば夢中で遊ぶのだが、1、2ヶ月くらい経つとすぐ飽きていた。まあ子供なんてそんなものなのかもしれないが。また、すぐに具合も悪くなった。2、3日に1回ぐらいは体温が37.0℃を超えることもしばしばだった。飯を食うのが遅く、給食もいつも最後まで残っていた。周りの子達は園庭で運動会の練習をしており、僕はその姿を遠目に見ていたものであった。

 💩我慢してたら便秘にもなった。大分苦しんだ。麦飯いっぱい食べた。あとひとり遊びはこの頃から。砂場でお山を作るのが好きだった。幼稚園の同性の子達とは波長が合わず、むしろ女の子との方が話していたとさえ思う。今では全くもって考えられない。このことが災いして現在に至るまで僕を苦しめ続けることとなる。

小学校低学年──いじめ


 公立の小学校に入学。治安はクラスとか学年とか担任によりけり。小さい頃から内向きな性格だったことは自認している。自分の世界に閉じこもりがち。ト●カとかプラ●ールが好きでよく遊んでいたが、思い思いに自分なりの街や道路を作っていたことを思い出す。誰かと同じペースで遊ぶ、というより自分のペースで、自分の世界に入り込みながら遊ぶことを好んでいたのだと思う。

 また、1年生の頃に東日本大震災が起こったこともあり、不謹慎なのか何なのか、防災意識が高いのかは知らないが百均でライトやアルミの寝袋のようなものを買ったり、食べ物を持ち歩いたりしていた。「もし今ここで地震が起こったらどうしよう!?」みたいな期待の仕方をしていた。アホだ。

エロガキデビュー

 すげえどうでもいいが、父親の実家の部屋を漁ってたらアレルギー性鼻炎になった。掃除もしてないそんなきったねえ部屋に入り込んだ理由としては、古いプラモとか古い本とかが、幼き日のやすたくんをワクワクさせたことなどがある、いや実際はもっと違うことなんですが。まあ、察しの良い人はわかると思います。大量のエロ本です。布の下にそれはあった。VHSのAVもあったよ。流石にこれはエロすぎた。だが怖かった。女性の裸体を見るだけで男という生き物はここまで狂ってしまうのか。この下半身の「熱さ」とはなんなのか。最初は怖かったが、病みつきになってしまい、しばらくの間入り浸っていた。女性の全身の生まれたままの姿を見た僕は、その写真に目が釘付けになったのである。

いじめの始まり

 虐められ始めた。僕は近所の運動神経の良いというか、乱暴なクソガキ共(尚クソガキなのはブーメランだ)とはスタンスが明らかに違っていた。別に僕が高尚ですげえ奴とか言いたい訳でも無いが、その中でも異質な存在だった僕はいじめの格好の対象になったのだろう。今となってはあまり思い出すことは出来ないのだが、パンツを下ろされたり転ばされたりとかだったかな?すぐに親に言いつけることもあって担任は奴らには言っていたが、それで虐められなくなるのは先生が言った時、母親が一緒にいる時だけであって、根本的になくなるのは小学校中学年までかかることになる。しばらくの間は母親の自転車と共に登下校するのはよくあることだった。まあ頑張った。

何故腹が弱いのか?

 あとこの頃から腹が弱かった。父親も母親も腹の調子を崩しやすいこともあったのでもしかしたら遺伝だったのかもしれない。おかわりすればすぐ腹を壊すし、冷たい500mlのペットボトルの飲み物でも飲んだような日にはすぐトイレの中に引きこもるような状態だった。飲むとすぐ腹を壊してしまうのだが、飲まなさすぎて逆に便秘になってしまうこともあり、そのジレンマの間で葛藤している。(これは現在進行形である)運動が本当に苦手で、週1回のドッチボールや鬼ごっこなどは本当に嫌だった。弱い割には悔しがりで、鬼ごっこで捕まったりドッジボールで当てられるとすぐ涙目になったものである。出来ないことがあるとすぐ泣いて助けを求めていた。まあこの時期ならまだ普通かもしれないが、周りとの差を幼いながら感じていたように思う。

小学校高学年──それは全盛期か

 有能担任のおかげで明るくなる。厳しい一面はあったが、教え方が上手かったのは勿論のこと、クラスのとりまとめ方もとても上手かった。自分のスタンスを示すとかではなく、何故を聞いてきたり、反論(否定ではない)を提示するなど、自発的な学習のサポートをしてくれた。歴史学習の面白さとか微塵もわかっていなかったが、Wikipediaなどで調べるうちにさまざまなことがわかり、歴史学習に興味を持つようになった。ソースとしてはあんまり信用しない方がいいけどというツッコミは今はやめたげてください。今でも歴史は好きだし、それはこの時にその源泉があるのだと思う。

 特にハマったのが自分の書きたいことを作文として書くという課題だったり、平和学習だったりする。まあその平和学習で思想が強くなる(超ゆるふわ表現)。平和のための戦争(これを学問的に表現するのなら「安全保障のジレンマ」なのかもしれない)の是非を論じたりなどしていた。まあ小学生に扱うにしては難解すぎる問題だっただろうと思う。

 この頃巷では集団的自衛権等の安保関連法でなんやかんやしており(こちらへのスタンスは今回の記事の趣旨とは異なるため割愛したい)、その頃から政治厨になった。ニュースを言ってなんやかんや言う親父の影響は大分受けていると思う。両親とはあまり波長は合わないのだが、政治思想だけは似てる。うん。

自信とコンプレックス

 そしてでしゃばりすぎ。調子に乗って放った言葉はもう完全に黒歴史である。
「もう百点なんて、飽きたさ───。」
僕のことを褒めてくれた女の子にこんなクソナルシ発言を放った。今思っても我ながら気持ち悪いと思う。これを思い返すたびに死にたくなる。まだ死なねえ、死ねねえけど。

 自分に自信がついたという変化はあったものの、すぐ泣くのとひとり遊びしがちは変わらず。女の子はこんなめそめそしてる奴を見ると母性が発揮されるのだろうか。当然僕のことをめんどくさがる人(特に男子)もいるし、それは今考えれば仕方のないことなのだが、女の子は本当優しかった。あと可愛かった。そんなしょーもないことで泣く自分が悔しいとまた涙が出てくるという負のループがあるので、本当にそこがコンプレックスだったと思う。

中1──ファイナルファンタジーな中学校


 中学校では小学校高学年の時につけた(?)自信がまだ(比較的)残っていたので、緊張はしていたが、比較的クラスには馴染めた。クラスで話せる人も出来た。中学で入ったのは卓球部で、2階に卓球台があるのだが、ボロくエアコンも何もなく、夏はとても暑く、冬はとても寒かった。1年の時は卓球台が足りず、ランニングと球つきばかりさせられていたものだ。部員としては、部費を納めずに、そもそも学校に来ずに中卒で家業を継ごうとする奴、リスカして部活で病んでて途中離脱する女子など、バラエティ豊かだった。

もう終わりだよこの中学

 中学校自体はかなり治安が悪かった。担任は表面的には優しいのだが、怒り出すと合唱の練習を放り出して他のクラスに行ったり、他のクラスはそもそも授業が崩壊したとか、理科の先生が生徒に手をあげたことで離任式にも呼ばれずどこかに飛ばされたとか。公立高校落ちはよくいた。ちなみに我が故郷は田舎なので私立は公立落ちが行くところという不名誉な称号が与えられて(?)いる。

 校則は軍隊並みだった。携帯は使用どころか所持すら禁止(これは市で、最近やっと緩んできたらしい)、飲食物・金銭の持ち込み禁止(部活や体育祭前などは茶やスポーツドリンクに限り可)、飴玉の包み紙が落ちていると「正直に名乗り出ろ」という感じで集会が開かれる。何故。コート禁止。ヘルメットは何故か自転車の後ろに縛らされる。一応これでも昔より治安は改善してるらしいのだが…………毎週水曜の集会で謎の発破をかけられた。
校風はバンカラで揃うまで入場行進を何度も練習させられるような、そんな体育系行事の練習が苦痛でしかなかった。何が団結だ。心身の成長だ。あんなのはクラス間の摩擦を崩壊させる以外の何物でもないだろう。実に馬鹿げている。

中2──人生狂いの起点

 中学2年生になった。新しいクラスになり、僕は焦った。知り合いと呼べる子がほとんどいなかった。だから、クラスでウケを狙った自己紹介をしてウケた。が、人と話せないせいでクラスに上手く融け込むことが出来ず、浮いた。周りの男子共にはバカにされた。

 今でも覚えている。学校祭の時も、友達がおらず1人でいることに惨めさを感じながらも誰かに学校の中をフラフラしていたが、その時に放たれた一言。
「やすたくん、1人で可哀想だよね(笑)
どうする?仲間に入れてあげよっか(笑)」

これもう虐めだろ。友達を作ること、人間関係があるから良いとかそういうことではないのだが、やはり本心では、僕はどこか人間関係に飢えていたのかもしれない。

学校は…嫌いだ…………

 行事のたびに団結だなんだと延々と練習をさせられ、運動神経も悪く無口な僕はクラスの足を引っ張る存在として、どうやら僕はクラスの奴らから見られていたようである。マジでクラスの誰とも喋れなかった。喋りたくもなかった。そして僕の性格は一気に歪んだ。人と話すのが怖くなった。学校に行く意味がわからなくなった。人の優しさとは本心からではなく、何か裏があるのではないかと勘繰ることも多かった。あまりに自分に自信が無くなると、自分を肯定してくれる人ですら拒絶してしまうのだと思う。話しかけられても上手く言葉を発することが出来ないというか。バレー部の女の子との事件もこの時期である。今ここで語りたく無いのでそれはまた次の機会としよう。

 学校の行事は基本的に嫌で行きたくもなかったが、部活の中の人間関係は比較的良好だった───というと語弊があるが───まだ話せる人間がいたのでなんとか学校に行っていたようなものだった。クラスの嫌いな人間達を見返すために勉強に励んだ。この時定期テストで過去最高順位を出すも、調子に乗って次のテストで気を抜いて過去最低順位を叩き出したのは言うまでもない。

アニメオタクの萌芽

 リアルに対してもう救いが見出せなくなってきた僕は、俺ガイルと氷菓を皮切りとして深夜アニメにハマった。時期としては最低だったが。人は何故中2にして狂ってしまうのだろうか。良いアニメだよ。日常会話のノリで展開される物語、好きだ。主人公の真似して黒歴史作ったけど。中学時代に俺ガイルと氷菓は絶対見ない方が良い。

 冬になると立志式なるものがあった。初心者さん達のために説明すると、まあ3/4成人式みたいなものであり、なんか決意表明をさせられたり、スキーをしたりした。
治安がファイナルファンタジーな中学だったので中2は「中弛み」をやめろとか先輩としての自覚を持って、とか正味どうでもいいような内容のクソ集会を毎週水曜に聞いていた。どんな内容か思い出せない。まあいっか。話が脱線した。立志記念スキー学習、これがまた嫌な代物で、グループを組んで滑るのだが、コミュニケーションが下手&運動神経が悪い僕にとってこういうのは地獄以外の何物でもなかった。運動神経の悪い僕はグループのメンバーの足を引っ張った。
「やすたくんさぁ、しっかりしてよ」
こういうのはかなり心にくる。嫌な奴らの言葉に内心怒りを覚えつつも、押し黙ったまま。そんな不甲斐ない自分が嫌で嫌で仕方なかった。

学力×コミュ力?

 勉強だけはそこそこ出来たので県内一の進学校に行きたいと思い始める。というより、人間関係が上手くいかず、スポーツでも限界を感じていた私が頼りに出来るのは、勉強だけだった。治安が良い学校、校則が緩い学校に行きたかった。実際高校の治安は中学に比べれば格段に良かった。全員人間だった。校則には腹が立つが、それでもあの中学に比べれば格段にマシなのである、いやそうなんですよ。服装・頭髪検査がない。面倒な集会もなかったり。これが人間の世界…!などと感動していた。それは置いておくとして。

 中学の定期テストは大体400〜470点くらい、順位は5〜30番台ぐらい。実力テストの方が出来るタイプで、大体10番台を維持していた気がする。学校は嫌いだったが部活があるので行っていた。部活弁慶とでも呼ぶべきか。発表やディスカッションはこの頃苦手になった。誰かに見られている、ということを考えると赤面したり足が震えたり…何かこんな世界を壊してくれる奴がいないかと(厨二)、窓の外ばっかり見ていた。突然優しい世界が訪れないだろうか、と。この世にはこんなくだらない連中しかいないのか。僕の自意識は過剰なものだった。斜に構えてもいた。

中3──受験は?

 クラス替えもされ、そこに部活関連の知り合いがいたのでそこまで孤立はしなかったが爺行為を覚えたせいで女子と喋りづらくなる。何故爺行為を覚えたのか。これはまた長くなる。まあ語ろうか。男女に思春期があることはわかるだろう。やはり心と身体にみな変化が生じるのである。体育祭の練習で揺れる𝙿𝙰𝙸𝙾𝚃𝚂𝚄と体育着の背中から透けるブラジャーに僕は耐えることが出来なかった。すいません。

 受験勉強するにもこの頃から人と話すことを避けるようになったので先生にも相談せず、否、先生に相談出来なかった。相談するのが怖かった。1人で勉強は進めていたが、インプットも不十分なまま過去問を解いてアウトプットをするなどのめちゃくちゃな勉強をしてたので7時間8時間頑張ってはいたが、成績はほぼ伸びなかった。模試の成績が伸びず、親からは何度も「こんな点数や勉強時間では○○(第一志望)高校には受からない」という言葉も受けた。そういう経緯もあるのか、自責で勉強しようとするのもこの頃からだった。将来に対しての漠然とした不安により精神的に不安定になり始めていた。勉強をやりたくはない、だが勉強出来ない自分にいったい何が出来ると言うのだろうか、それでも苦しい、などの不安を抱えながら。

高1〜高2春──社交不安、コロナ

倍率が1に限りなく近く、非常に低かったおかげ(少子化)で県ナンバー1の進学校は諦めたが2,3番手の学校に滑り込んだ、が話せないので友達は出来ない、勉強には置いていかれる。それなら友達や先生に聞けばいいはずなのだが、社交不安のせいで人に話しかけることも出来ず、周りから注目されかねない職員室に足を運んで先生にわからないところを聞くのが怖かった。別になんということはない。怒られるわけではないのに、何か、なぜか怖い。唯一自信があった勉強が消えたのであらゆる自尊心というものはこの頃にはもう既に消え去っていたのだと思う。「まあ、進学校だしね…」という言い訳も通じないことに気づき始める。気付けば周りから取り残されていたように思う。「俺どの大学も受からないんじゃね…?」机に向かうのはもう苦痛である。親に赤点のテストを発見され叱責された時にはもう生きた心地などせず、どうせ勉強の出来ぬ俺に道などない、と沈黙を貫いた。いや、それしか道がなかったと言った方が正確だろうか?過去の自信はどこへやら。

起死回生?

 ただ、このままではいけない。自分で選んだ道なのだから。自分でカタをつけなければならない。先生に質問出来ないという致命的な弱点を抱えながらも休日に自習のため解放していた学校で予習や課題をこなすなどし、深夜まで起きて、朝は目覚ましと親の声でなんとか起きるという生活にも少しずつ変化が見られ始めた。ちゃんと夜は23時には寝るようにした。朝も6時に起きるように。
「生活習慣が安定するだけでこれだけ楽なのか…」というのは偽らざる実感である。
そのような努力?の甲斐はあり、決して上位ではないものの定期試験の点数や順位は少しずつ上がり始めた。ただ赤点は相変わらず複数の教科で取りまくっていた。あまりに落ちこぼれすぎて感覚が狂い始めていたのか、赤点取らなければいいだろという典型的クソ学生の思考様式にハマっていったのである。いや、そうでも思わなければまたメンタルが狂ってしまうからなのだろうが。

コロナ前から予兆はあった

 当時、新型コロナウイルスの流行が世間で話題になっていた時(2020)、僕の高校でも春休みの期間が延長された。行きたくない学校だったので休みが延長されるのは嬉しいことではあったが、それゆえに生活リズムが狂っていたり(高校の時は基本狂ってたけど)、普通の人にとってはなんでもないことでも、自分にとっては苦痛なこと。ちょっとしたことでおかしくなるメンタルを整えるためにマンガを読んだりソシャゲに興じたり。確かに時間は潰せるのだが、あまり面白くない、と言うより身が入らない。そして休みが延長されるたびに追加の課題が送られてくるのだが、ただでさえ計画性のない人間なのでだんだんと課題が積み重なってくるのである。特に数学が苦手だったのと、聞ける友達がいなかったこと、先生にも聞けなかったこと。役満。
ちなみにオンライン授業はありませんでした。古代の高校なので。(尚昨年からiPadが生徒1人に1台貸し出されるようになった模様)

高校で抱えた限界

 高校が再開された。課題はわからない。友達はいない。行く意味はわからない。もう行きたくはない。とはいえなんかサボるのは良くない。いっそのこと、体調でも崩せば少しでも行かなくて済む…………この思いが、現在まで頻繁に続く腹痛の原因だったのだろうと今となっては思う。それはあまりにも激しい痛みだった。親からは「学校はどうするの?」と聞かれた。あまり記憶は残っていないが、「学校に行けない人間が社会でやっていけるわけがないだろ」という言葉を浴びせられた。こういう言い方には流石に怒りを覚え、流石に僕も怒りを覚えたが、頭に血が昇るばかりでまともな言葉も出てこなかったのも悔しい。こういうテキストで伝える場はともかくとして、僕は対面で話し言葉ですぐに何かを伝えようとするのが苦手らしい。

家族に同情すれど、賛同はせず

 まあ母親の家庭環境もなかなかイカれてはいて、母の父(僕にとっては母方の祖父にあたる)は身体が弱かった上にタバコをしょっちゅう吸っていた(仕事をやめたから?)らしく、母の母が介護しなければならなかった。また、家庭では子供よりも猫を大切にしており牛乳は子供ではなく猫に与えられたとか。母が18?ぐらいの時に肺がんで亡くなったそうだ。そのため僕が見ることが出来るのは墓だけである。
家族構成としては1男3女、母は3女だったはず。が、2人の姉は既に結婚などで家を出ており、家計を支えるという役割を担っていたのは母親だった。中学を卒業後は家計を支えるべく働きに出ていたが、母親もまた身体が弱く、過酷な労働環境や貧血などに耐えかねて、倒れてしまう。そして弟もそのような状況で荒れ、暴れて家中がボロボロになったとか。そんな中出会ったのが某与党の支持母体である某新興宗教らしい。やはり救いは全てを救う。今でも実家には母親宛てに聖●新聞は届く。ハム●党候補のビラ(?)もよく置いてある。最も、集会などの集まりには参加していないようだが…………

 だがその甲斐(?)あってか「社会の厳しさ」は熟知しているようで、特段裕福というわけではないが、生活には困っていないし(父親が)働いているし、飯も出てくる環境にいる僕が学校に行けないことはどうしても理解出来ないらしい。また、気分屋のため普段の何気ないような出来事さえも、機嫌が悪い時は何が地雷になるのかわからないから怖い。もしかしたら僕が人と話す時に何か言われないか極度に緊張してしまうのも母親との接する際を思い出すからなのかもしれない。

 父親は共働きの2人きょうだい(姉がいる)で理系大卒からの現場勤務となったが、一時期過労やストレスで2回胃潰瘍・1回メニエール病と、計3回入院しており、要は身体を犠牲にすることで日本人の平均年収よりちょい上ぐらいを得ていた。犠牲が少々多い気がする。

学校でのいじめという要素はあるが、少なくとも僕を真っ正面に受け入れないことに関しては控えめに言って生涯許さないし、親の介護は絶対したくない。また、そこから自分の家庭への考え方も結果として少々歪んだものとなった。(向こうも別にこのことに関して悪いとは思ってはいないのだろうし、こちらからも絶対に言うつもりはないが)

 ああ、コイツらは自分の子供よりも世間体のことしか見ていないのか、という絶望から、僕は親に相談することをやめた。学校には友達はいない。誰にも相談出来なかった上、相談する気も起きなかった。そうして1人の世界に閉じこもるようになった。自分は世界からまるで切り離されていたかのようだった。何のために学校に行っているのか、何のために生きているのかが怪しくなる。だがそんな選択をした自分のことを最も憎んでいたように思う。僕には姉はいたが、性格がまるで合わずあまり仲が良くなかった上に5つ離れていたので、相談する気も起きず。

結果として学校には再び行けるようになった(健康な状態でとは言っていない)わけだが、それは別に学校にまた行きたくなかったとかではなく、単に高校・大学を出て就職する、というレールから外れた自分の人生が想像出来なかったから。そのルートから外れるのが怖かったから。いたって臆病な理由である。そんなに思い詰めることでもないと言われれば多分そうなのかもしれないが、自信を失った自分が他に頼れるものは、他になかった。

(続く)

半生というか20年弱ぐらいの人生はここに投下しておくつもりでしたが、あまりに長くなったのでここで切ります。多分次回は高2春・登校再開編。高校の鯉に餌をあげたり、毎日5時間睡眠は当たり前だったり赤点で反省文を書いたりします。

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