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4回目の移植を何もなく終えたけど、前に進めているはずだから

4回目の移植。結果はなし。

クリニックで担当医から話を聞いて、「まあ、わかってはいたけれど」と納得しながら少し傷ついている自分がいた。何に傷ついていたのかは、今も正直わかっていない。心のどこかでまだ母になる自分を想像していたのかもしれないし、こんなに痛い思いを日々しているのに結果が出ないことに虚しさを感じていたのかもしれない。たぶん後者だけど、「あ、わたし今少し凹んでいる」と気づいて驚いていた。

「妊娠できなくて少し凹んでいる」と素直な気持ちを夫に言ってみたら、移植期に入ってから我慢していたサイゼリヤで夜ごはんを食べることになった。久しぶりのランブルスコと食べたいものを片っ端から頼むサイゼは最高だった。

食べながら、夫が「保険適応の6回までやったら、もう終わりでいい」と改めて切り出してくれた。わたしはその言葉を待っていたのかもしれない。すごく気持ちが楽になった。夫を父にできないことに申し訳なさは募るけれど、やっと終わりが見えたことへの安堵が上回る。痛さに敏感で針が怖いわたしがなぜここまで痛い思いをしなければならないのかと恨みたくなっていた気持ちより、やっと終われることへの喜びが勝っていた。なにしろ、わたしは子どもを持つ人生をとうの昔に諦めている。

そんな話をわたしから改めて伝えてみたけれど、どうやら真正面から受け止めてもらえたらしい。「6回までと言うけれど、痛い思いをするのはわたしだぞ」と今も思う。それでも、今ここでやめたら何年か後で「やっぱり痛くても保険で済む分くらいがんばればよかったかな」と悩む自分も想像できる。だから保険適応の上限まではがんばろうという気持ちは、わたしも同じだ。

治療をする中で、夫が病気にならなければ、と考えないときはない。気をつけているとはいえ、今でも夫の病気は時に生活を蝕みながら共存している。わたしの負担になっていないと言えば嘘になる。それでも最近は、この前カウンセリングを受けたときよりは、思っていることを話し合えるようになった。不妊治療を体外受精6回で終える話もそう。模索しながらだけれど、手を取って歩いていける気がしている。移植の結果は出なかったけれど、気持ちは前に進めているんじゃないかな。

さて、4回目の移植期はこれにて終わり。

久しぶりのお酒と思いのままに食べたサイゼも、そのあとに歌いながら歩いた帰り道も楽しくて、「これだけで十分幸せなのに」と何度も思っていたのは、ここだけの話。


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