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【小説】田辺朔郎 ①萌芽


明治初頭 遷都により京都は衰退の只中にあった。起死回生の策として琵琶湖から京都に水を通す「琵琶湖疏水」が計画された。当時の技術水準を上回る無謀な工事に挑んだのは若干21歳の青年技師「田辺朔郎」だった・・・



ゴールデン・エイジ号

 明治6年9月13日パシフィック・メール汽船会社所属のゴールデン・エイジ号1869トンは巨大な外輪を回し煙突より黒煙を吐きながら悠然と横浜港に着岸した。
 出迎えに集まった群衆の中に、後に琵琶湖疏水の工事主任となる田辺朔郎少年11歳の姿があった。

 初めて見る巨大蒸気船に朔郎の目は釘付けになった。

 あのように大きな鉄の塊はどのようにして作り出すのか? あの大きな外輪はどんな力で動かしているのか? 艦上に突き出た巨大な天秤機構はどのような役目をしているのか?

 万里の波濤を越えて自らの力で世界を行き来する。
 人の力でこのような物を生み出すことができるのだ!
 この時の感動は少年をしてエンジニアを志す原点となった。

絵画「S.S.HIROSHIMA MARU」作:山高五郎 所蔵:船の科学館
ゴールデン・エイジ号は後年 郵便汽船三菱会社が買収し、
広島丸と名を変え、横浜ー上海航路に従事した。
上はその時の様子を描いたもの。

 1700年代中ごろイギリスにおいて石炭を燃料とした蒸気機関が発明され、その動力と機械の力はそれまでの世界を一変した。
 いち早く産業革命を達成した西欧諸国は世界を席巻し各国は争って世界の植民地支配を進めていた。その波は1840年には隣国の清国まで達し、アヘン戦争で清国はイギリスに大敗し香港を割譲されるなど列強の中国蚕食が始まる事態となっていた。

 明治維新の背景には、日本が西欧に植民地支配されることに対する恐怖感があり、維新政府は産業革命後百年の遅れを取り戻すため、その初めから西洋文明の吸収に躍起となっていた。

 明治維新よりはや6年、電信・電話・ガス燈・レンガ工場・製糸工場など矢継ぎ早に建設が進められ、この日のちょうど一年前には新橋ー横浜間の鉄道が開通しており、文明開化の波は誰の目にもあきらかに押し寄せていた。

岩倉遣欧使節団

 ゴールデン・エイジ号の乗客には、岩倉具視、木戸孝允(桂小五郎)、大久保利通、伊藤博文など新政府の主要メンバーの姿があった。  
 遡ること1年10カ月前、明治政府は、幕末に締結した不平等条約の改正のため、使節団を欧米各国に派遣した。

 太平洋を渡りアメリカ西海岸へ、陸路ワシントンに至り米国政府との交渉を皮切りに、大西洋を渡って、イギリス、フランス、オランダ、ドイツ、ロシアなどヨーロッパ各国を歴訪し、スエズ運河を経てアジア各地の植民地の状況を視察し、横浜に帰着した所だった。

明治4年11月12日~明治6年9月13日の使節団行程

 政府首脳陣が2年近くも外遊するとは暴挙とも言える出来事だが、この訪欧が彼らの精神に及ぼした影響は絶大なもので後の日本の方向性を定めたと言って過言ではない。

 本来の目的であった条約改正はかなわなかったが、米欧各地で訪れた工場・港湾、街を形作る鉄道・道路・橋梁など彼我の文明の差を実感するには十分なものであり、条約改正はさておき、日本は彼らに対抗すべき国力を養う事が急務である。という結論が使節団の共通認識となっていた。

 伊藤博文は幕末の長州藩士時代、イギリスに密航・留学した経験があり、西洋との力の差を痛切に理解していた。
 殖産興業に力を注いでおり使節団派遣の前には工部大臣に任ぜられ技術者養成のための教育機関を設立すべく準備を進めていたのだが、教師団の選定を依頼していたお雇い外国人エドモンド・モレルが急死したため、別ルートでの依頼を行う必要があった。

 伊藤は使節団の行程中、留学時代に世話になったジャーディン・マセソン商会のロンドン支配人ヒュー・マセソンに相談、グラスゴー大学のランキン教授を通じて同大学在学中のヘンリー・ダイアーが推薦され、日本に技術者養成のための大学を創ることとなった。

田辺 太一

 明治5年8月9日 ロンドンにて撮影され、榎本武揚に送られた一枚の写真がある。

 いずれも旧幕臣の田辺太一、安藤太郎、大鳥圭介が写されている。田辺太一は朔郎の父の弟つまり叔父に当たる人物である。
 大鳥圭介は函館五稜郭において、榎本武揚や土方歳三らと共に最後まで新政府軍に抵抗を続けた人物である。

 函館において降伏後は投獄されて処分を待つ身であったが、明治5年1月特赦により解放され、同年2月に政府が資金調達のため外債を募集する使節団を派遣するにあたり、その能力を買われて交渉要員として随行する事になった。

 外債募集使節は、岩倉使節団出発の二ヶ月後に日本を出発しアメリカにおいて合流した。ロンドンにて旧幕臣グループが集まり記念撮影し、同じく旧幕臣で、五稜郭において函館政府の首相を務めた榎本武揚に写真を送った というのがこの写真の由来のようである。

 田辺太一は旧幕府の外事方として洋行経験があり、西洋知識が豊富なスペシャリストである。二度目の渡航先のパリで、後の大実業家渋沢栄一らと共に幕府滅亡の知らせを異国で聞いている。
 帰国後しばらくは新政府への出仕を拒んでいたが、明治3年新政府に請われる形で出仕する事となり、この度の使節団においては、一等書記官として同行していた。遣欧使節団関係の報告書には田辺太一の名前が筆頭に記載されており、事務方のトップとして重要な位置を占めていた事が分かる。
朔郎の父は田辺太一の兄であり、田辺家の本家であったが、朔郎が生まれて間もなく大流行していた麻疹にかかり亡くなっている。朔郎一家には祖母と母・姉・朔郎が残され、その家計は叔父の太一に頼る他なかった。
朔郎は、父親同然と仰ぐ太一の帰国を迎えるために横浜を訪れゴールデン・エイジ号の雄姿に魅せられたのである。
 叔父の太一と大鳥圭介の縁、岩倉使節団が持ち帰った文明への熱、朔郎の運命はその日、時代のうねりの中に漕ぎ出した。

ヘンリー・ダイアー

ヘンリー・ダイア― Wikimedia Commons

 イギリス工学会の大家ランキン教授に推薦されたヘンリー・ダイアーは、この時まだグラスゴー大学の学生であった。

 ダイアーの研究テーマは理想の工学教育であった。
 当時のヨーロッパ工学教育の状況は、イギリスでは徒弟教育において現場での実践を重んじ理論を軽視する傾向があり、フランス・ドイツでは逆に、理論を偏重し実践を軽く見る傾向があった。

 既に各国の工学教育の状況を視察し、構想をまとめていたところであり、まさに使節団の求める所と一致する人材であるが、ダイアーにとっては自らの理想を実践する場所が、ほとんど未開の極東の島国になるとは、思いもよらなかったことだっただろう。

 しかし欧州で理想を実現するにはダイアーには何の実績もなく、若すぎた。
 それが日本であれば、何の制約も無くゼロから思うままに設計ができるのである。若い彼が理想の実現に情熱を注いだ事は、日本にとっても彼にとってもこの上ない僥倖だったのではないだろうか。

 使節団からの打診を受けるやいなや、ダイアーは早速船上の人となり、使節団の帰国前には日本に到着している。
 洋上において工学大学のカリキュラムの作成に取りかかり、日本に到着後すぐさまそれを提出。彼のプランは一切の修正を加えられる事なくそのまま採用された。

 彼が作成した工学教育課程の概要は以下のとおりである。

 全課程を6年とし、はじめの2年を一般教養の習得に当て、
 3~4年目は半年を教室での講義、半年を実地研修、
 5~6年目は各地の事業に従事し実地に事業を行うこととされており、理論と実践を偏り無く身につけ、卒業後すぐに各種事業の実施者として活躍できるようカリキュラムが組まれていた。

 また、工部大学は工部省の所管だったため、学生達には工部省が管轄する工場施設や公共事業の現場に自由に出入り出来る権限が与えられており、大きなアドバンテージとなっていた。

 土木、機械、電信、建築、化学、鉱山、冶金の七つの専門学科を持つ、当時、世界でも数少ない堂々たる総合的技術教育機関であり、明治10年5月17日発行のネイチャー誌でもハイレベルな化学教育を行っていると高く評価されている。

工部大学校

 叔父田辺太一の勧めもあり、朔郎は明治8年13歳の時に工学寮小学校に入学し、明治10年15歳で工部大学校に進学した。
 入試成績は極めて優秀であり官費生の資格を得たが、ある日、朔郎は工部大学校校長に就任していた大鳥圭介に呼び出しを受けた。

工部大学校(1880年) Wikipedia

 少し緊張しながら校長室に入ると髭を蓄えた小柄な男が椅子に腰かけていた。
「君が朔郎君か、太一君には使節団で世話になったよ。」
「使節団の事は叔父からよく聞いております。」
「実は私は亡くなられた君の父上の事も知っているのだよ。昔伝習隊で秋山秋帆先生の洋式砲術の講義を受けた時、実技の指導をしてもらったよ。君には父上の面影があるね。」
「そうなんですか、私には父の記憶はありませんが、父の話を聞けて嬉しく思います。」

 校長の用件というのは、朔郎の叔父太一は外交官として政府より高給をいただいており、このうえ官費にて学費を得るのは世間に批判をあびかねない。申し訳ないが辞退してもらいたいとの事であった。

「太一君にはもう話しをしているのだが、君と話しをしてみたかったのだ。これからも勉学に励んでくれたまえ。」

 何気ない日常風景だが、この後大鳥圭介は陰に日なたに朔郎を支援していく事になる。
 
 第1学年の授業科目は、英語・数学・歴史・科学・物理・作図・文学の一般教養であるが、この当時工部大学の授業は、外国人により英語で行われたため、英語の習得がまず始めに必須であった。

 第2学年の授業科目は引き続き一般教養として、英語・数学・歴史・科学・物理・作図・文学を学んだ。
 専門教育の過程において一般教養を学ぶ事の意義について、ダイアーは学生達にこう述べている。

「諸君が文学や哲学、芸術その他専門職にまったく役にたたないと思われる諸学科にまったくの門外漢であったならば、多くの専門家につきまとう偏狭さ、偏見、激情から逃れることは不可能になるだろう。」

 教育は専門的知識を身につけるだけではなく、全人格的な修養が必要であるというダイアーの理想の現れであろう。
 朔郎は彼の言葉に感銘を受け、終生 書画 楽曲 篆刻など、様々な分野を本業の合間にたしなんでいる。後年日露戦争開戦直前にシベリア鉄道の視察に出かけた際など、旅中に足止めされ旅費も底を尽こうとする中、一人路傍の石ころを拾い篆刻をほどこしながら悠然と過ごしたエピソードが残されている。

 第3学年の始めに専攻を選択し、専門課程に進む。
 ここでの科目は、応用物理・測量・蒸気機関機械学・土木作図・鉱石学・測量図学及び実技・野外測量・地質学・土木学・数学・科学・と専門的内容を学ぶようになる。半年は教室での授業、もう半年は実技研修をおこなった。

 第4学年も引き続き座学と実技を半々とし、科目は、鉄道路線計画の実地測量(前期)・土木学・蒸気機関機械学・土木測量図学・機械図学とより専門的な内容となっている。

 第5学年・第6学年のカリキュラムについては、ただ「実地において事業を行うこと」とのみ記され、工部省所管の各種公共事業に従事したものと思われる。

 こうして卒業時には理論と実技を合わせ持つ人材となり、卒業生は様々な分野の発展に遺憾なく力を発揮した。卒業生の名簿はその事実を雄弁に物語っている。

工部大学にて

 朔郎の資質の証明となるいくつかのエピソードが残されている。
 ある日の数学の授業で、円周率の求め方の授業があり教室において、30桁までの数値が示された。期末考査において朔郎は50桁まで記載した答案を提出した。
 いぶかしんだ教授が朔郎を呼び出し、君は円周率の周期表を試験に持ち込んだのかと問うたところ、

「いえ、そのような事はありません、お疑いであればこの場で書いてご覧に差し上げます。」と言い、その場で50桁まで記載し

「更に20桁ほど書き添えます」
と言うや70桁までの周期表を筆写してみせた。

 教授はその記憶力の素晴らしい事に驚きを禁じ得なかった。

 また、ある日の図形問題の授業において、図上で角は二等分できるが、三等分する事はできないとの講義があった。

 図形問題とは、直線を引く事ができる定規(目盛りの使用は不可)とコンパスのみを用いて問題を解決する学問であり、角の三等分問題は、古代ギリシャの三大作図問題として、円積問題、立方体倍積問題と共に解決が不可能であると示唆されていた2千年来の数学的課題である。最終的に不可能である事が証明されるのは1837年のピエール・ヴァンツエェルまで待たねばならなかった。この当時不可能性の証明間もないホットな話題である。

 この課題に対し、朔郎はある一種の曲線を考案して補助線を引くことで三等分してみせ、驚いた教授が、君は今の講義よりはるかに高度な数学を学んでいるのか?と問うたところ

「いえ、私はいま正に先生に学びつつある内容の他は何も知りません。」と答えた

 角の三等分問題は先述のとおり不可能である事が証明された問題である。   
 朔郎が図示した方法は正確には分からないが、パスカルの蝸牛曲線などを補助線として使う事で解決する手法があり、どのように図示し得たのか不明ではあるが、図上にその形状を再現し解を導いたものと思われる。
 予備知識無しに複雑な補助線をイメージし解法を導くとは四次元的発想力と言える。

 すぐれた記憶力だけではなく、発展応用する力も並外れていたことがうかがえる。 

パスカルの蝸牛曲線を利用して 角を三等分する作図例

 また、ある時は剪断力の計算において、色々な部材の組み合わせをした時の動加重に対する適切な図式がまだ無い事を聞き、2週間かけて、剪断力の図式に関する論文を書き上げ提出したところ、教授陣の絶賛を得て、大学における特別の賞が授けられ、その論文はイギリス エンジニアリング誌の明治13年11月号に掲載された。
 
 ダイアー教授の考案した理想的な教育計画の元、朔郎はその才能を大きく開花させていた。
 理想の工学教育の実現に情熱を注いだダイアー教授を朔郎は生涯敬愛しており、氏の「工学は人々の幸福のためにある」という信念と、「自ら大きく楽しんではいけない」という己を律する精神は、この後朔郎の人生を太く貫く指針となった。
 
 なお、朔郎は長身で豊かな髭をたくわえたこの外国人を 相当の年上と思っていたようであるが、実際は十三歳差であり、後年母国に帰った恩師をスコットランドに訪ねた際「先生はお年なのに若く見える。」と驚いたところ「若く見えるのではなく実際若いのです。」とのやりとりがあり、そこで初めて先生の年齢を知ったというエピソードを、著作の中で楽しそうに語っている。
 ダイアー教授の方では、朔郎の事を教え子であり友人と評している。 

(つづく)

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