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【連載エッセー第36回】学問への姿勢を問う

 丸山啓史さん(『気候変動と子どもたち』著者)は、2022年春に家族で山里に移り住みました。持続可能な「懐かしい未来」を追求する日々の生活を綴ります。(月2回、1日と15日をめやすに更新予定)
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 私は大学で教員をしている。だから、ときどき研究者の集まりに参加する。そんなときに気になるのが、机の上に置かれているペットボトルだ。

 先日も、「戦争」をテーマにしたシンポジウムに参加したら、登壇者を含め、参加者の8割ほどの前にはペットボトル(または缶)があった。

 ペットボトルを作るための原料・燃料となる石油をめぐって、たびたび戦争が起きてきたのではないのだろうか。プラスチックの使用によって気候変動が助長されれば、紛争・戦争が生じやすくなるとも言われている。

 日本の社会の現状を考えると、日常生活のなかでペットボトル飲料を利用する人を激しく非難しようとは思わない(穏やかに説得したい気はする)。でも、社会のことを真剣に考えようとしているはずの研究者が、恥ずかしげもなく公の場にペットボトルを置くことには、激しい疑問を感じる。

金属とプラスチックの水筒が最善だとも思えない

 子どもの権利に関する学習会の場でも、ペットボトルが並び、お昼にはコンビニのパンが持ち込まれていた。プラスチックや農薬による環境汚染が子どもの権利を脅かしていることについての見解を問いたくなる。工業型農業を基盤とする現在の食料システムが気候変動の要因になっていること、気候変動が子どもの権利にとっての巨大な脅威であることは、どう理解されているのだろうか。子どもの権利について考えるときくらい、もう少し、子どもの権利を守る努力をするべきではないだろうか。

 別の機会には、「エコロジー」を主題とする研究発表を聞いたけれども、発表者の机には、パイプをくわえたおじさんの絵が入ったペットボトルが置かれていた。コーヒー飲料のようだ。「これは一体どういうことだ?」と思ってしまう。

 さらに、その集まりの懇親会に出ると、大学生協の食堂が会場だったのだけれど、おしぼりも、割り箸も、紙の皿も、プラスチックのコップも、ことごとく使い捨てのものだった。そして、並んでいる料理のほとんどに肉や卵が使われていた(私はそれを食べるわけにはいかない)。

 普通の学会でのことなら、「これが日本の現状だよな」と気持ちを落ち着かせられるのかもしれない。けれども、学会誌で「エコロジー」についての特集をしているような組織でのことだから、困惑と憤怒と失望が混じった感情を覚える。

 気候危機を語りながら、ベジタリアンではないこと、肉の唐揚げやエビの炒め物を食べることを公言してはばからない研究者もいる。地球温暖化について文章を書きながら、一方で「畜産や屠殺の文化を守れ」と言う研究者もいる。畜産が巨大な温室効果ガス排出源になっていることを考えると、こうした態度は研究者として(人として?)不誠実だと思う。

 もちろん、みんながペットボトルを使わなくなっても、それだけでプラスチック汚染がなくなるわけでもないし、気候変動が止まるわけでもない。何人かの研究者がベジタリアンになったくらいでは、畜産の害もなくならない。それでも、ペットボトルの使用をやめるくらいのこともしないで、何をしようというのか、と思う。

 私自身も矛盾を抱えてはいて、学習会に革の靴を履いていくこと、革のベルトをしていくことについては、葛藤がある。クリアファイルを使うのも、(自分で新しく買うことはないにしても)本当は良くない気がする。人前でボールペンを取り出すことにも、後ろめたさを感じるときがある。ただ、水筒を持ち歩くのは難しくないから、ペットボトルを使うことはない。

文房具はプラスチック製のものが多い

 自分も足りないところだらけで、エラそうなことは言えない――そんなふうに謙遜するつもりはない。自分がまだまだなのは、わかっている。でも、そのこと以上に、ペットボトルを片手に、堂々と肉を食べながらエラそうなことを語る研究者の存在が気になる。

 誰かから反論があれば、受けたい。お前のほうこそ、まだまだじゃないか、なってないじゃないか――そう批判してくれる研究者に出会えるときを、私は待ち望んでいる。

『気候変動と子どもたち 懐かしい未来をつくる大人の役割』
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 #里山 #里山暮らし #山里 #ペットボトル