薄野遊郭(続き)
前回の記事で【薄野遊郭】についての記事を書かせていただきました。
今回はその続きです。
蝦夷地に開拓使が渡り
”官許(つまり政府公認)”の遊郭が薄野に置かれることとなったとき
太政官正院に提出された書面には、要約すると
「一万人の者が開拓に従事するため、これから札幌に集まるので、その足止め策として遊郭を。」
と書かれていました。
(撮影:すすきの交差点)
江戸末期から明治にかけての激動の時代。
戊辰戦争を経て政情が大きく変わり
市民にも大きく影響を与えましたが
変わらなかったこともありました。
(撮影:鴨々川。遊郭があった頃は鴨々川沿いに赤提灯と柳が連なっていました)
それは、幕末から続く飢饉により、貧しく餓えた民が多かったということです。
江戸時代も、明治に入ってからも
貧しい家に生まれた女の子は、家を支えるために身売りされることが当たり前のように行われていました。
自ら売春を生業として選び、廓(くるわ)の世界に身を置いた者もいたそうですが
大半が親や兄弟のために前借金をし、平均して凡そ十年で返済すると言う年季制度のもと遊郭に身を置いていました。
(画像:wikipediaより1872年撮影「薄野遊郭の御用女部屋 東京楼の遊女・芳子(中央の人物)」)
「家族のために」
遊女として生きることを選んだ者たちでしたが、その道は決して楽ではありませんでした。
実際は着物や簪、高価な衣装などを楼主に買わされていたため
身を売って働いた分だけ順調に借金が減るわけではなかったのです。
(画像:wikipediaより1914年頃撮影。薄野遊郭の妓楼。左端から西花楼、北越楼、源氏楼。右側は青葉楼。)
また梅毒などの性感染症にかかるリスクが高く、
十年の年季が明けて、自由の身となる前の10代や20代で、
短い生涯を終える遊女も多かったと言われています。
(画像:wikipediaより。明治後期の薄野遊郭の一角)
江戸時代以前にあった京都の島原や江戸の吉原遊郭などの遊郭は、基本的には富裕層が行く場所でしたが、
薄野遊郭に限らず北海道の遊郭で相手にする客は肉体労働者が多く、非常に過酷な状況にあったと言われています。
(撮影:2019年解体された鴨々堂。かつて芸者の置屋として使われていた)
また内地にあった遊郭は、大抵の女性なら越えられないほど高い塀が築かれている場合が多いですが、
明治四年に築かれた薄野遊郭は、高さ四尺(約1m20cm)の土を盛られた塀で囲まれているだけでした。
1m20cmほどの塀なら、簡単に飛び越えて逃げることができそうな高さです。
しかし開拓当初の薄野は現在のすすきのとは全く異なり、塀の外には狼や熊がおり、
冬になると生死を問われる寒さです。
(写真:札幌市内撮影)
まさに「中にいるも地獄、逃げるも地獄」でした。
どんなに非情で過酷な労働環境であったとしても、
廓の中で働く女性たちが、
この腰ほどの高さの塀を乗り越え逃げたところで
行く先などなかったことでしょう。
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彼女らの犠牲の上に、今日の北海道があると言っても過言ではありません。
このような歴史を繰り返さないためにも、
ここまで読んでくださったあなたの心の片隅に
少しでもこの話が残ってくれると嬉しいです。
最後まで読んでくださってありがとうございます^ ^
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