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逃亡とビジネスホテル

 てんでダメな時期というものがある。
 きっかけは時によって変わる。気候だったり、仕事だったり、プライベートだったり、多岐にわたる。よくもまあ、ここまでダメになるな、というほどダメになる。このシーズンを迎えてしまうと、生活の中でのリカバリを図ろうとも難しい。なにより生活が崩れはじめるのだから、その中で回復などできなくて当然ともいえる。食事に気を使えなくなるし、風呂に入ればネガティブな思考に潰されそうになる。このループ思考は就寝前などには殊更ひどいのだが、酒の力を借りることがあれば要注意だ。こうしたときの酒は百薬にもなってくれないどころか、鮮やかに裏切り、より深みへと突き落としてくれる。

 ダメになる理由が生活の中に起因していることが多いなら、一旦生活の外に行くほかない。逃亡だ。生活がいかに破綻していても、まずは一旦置いて逃げる。逃亡するにはビジネスホテルが最適である。可能なら温泉か大浴場つき。朝食はあってもなくても構わない。どうせこのシーズン中は朝起きることがつらくなっているので、無理に起きなくてもいい、くらいに思えるほうがいい。ベッドはシングルかセミダブル。てんでダメなときに逃亡してホテルですることはダラダラすることだけなので、ベッドは広いほうがいい。ホテルのベッドの広さは懐の広さだ。懐の狭いやつになってはいけない。そして、冬でも夏でも、毛布を借りる。ホテルのシーツはパリッとしていて気分がいいが、ヨレヨレのカピカピになっている精神には固すぎる。枕は選べるならば大きいものを選ぶ。大きい枕は、頭の周りに立ち込めているドデカい苦悩も受け止めてくれる。

 ビジネスホテルのチェックインはおおよそ15時からだ。時計の針が15時になった瞬間にホテルに入って、早々にチェックインする。部屋にはいったら、ある程度環境を整えて、靴を脱いで、大きい枕と毛布を敷いたベッドに横になる。窓の外が見える部屋だとなおいい。ぼーっとなにもせず、窓の外、空を、ベッドから眺めていると、「色々あるけど、しょうがねえな……」という気分になってくる。眠れるなら眠ってしまってもいい。夕食も、風呂も、無理をしない。もし可能なら、宿泊客で混みはじめる前の大浴場でぼーっとすると気分がいい。掃除を気にしなくていい入浴は最高だし、タオルは清潔だし、いつもと違うシャンプーの香りもいい。ただ、自分を労わるにも体力が必要なので、何度も言うようだが無理しない。「できるかも!」は危険だ。断言するけど、「しなくていい」。

 この逃亡で重要なことは、15時という早めの時間からチェックインしてしまうことだ。なにもせず、なににも左右されず、安全なシェルターのようなビジネスホテルの個室で、日の高いうちから心身を休ませる。でも、そうしていると「なにもできないダメなわたしが、こんな時間からなにもしていない。無力。無為。不毛。最悪。もうダメだ」と負の感情が囁くかもしれない。そういうときは、少しだけチカラを振り絞って「これでいい、わたしはこれがしたい」と唱える。最悪の波はなんども押し寄せるだろう、確実に。てんでダメな時期とは、そういうものだ。溺れなければいい、くらいの気持ちで、波間に浮かぶことに専念する。そのためには、力を抜かなければならない。ダメになっているときは、力みすぎている。

 先日、逃亡が必要なシーズンを迎えたので、隣町のビジネスホテルに予約した。時間になったのでチェックインしようとしたら、どうにも宿泊者リストにわたしの名前がないらしい。おや、と思ってメール受信箱を確認すると、末尾がインの別のホテルにきていた。夜鳴き蕎麦の印象に引っ張られすぎていたのだ。てんでダメなときは、こういうこともある。呆然としたまま車にもどって、知らない街の喧噪の中で、少しだけ笑った。笑えた。

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