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朝とセレモニー、そのにおい

 朝は、うっすらと体調が悪く、機嫌も悪い。
 液体か、液体に限りなく近い流動食しか受けつけられない気分が立ち込めている。しかし、社会の歯車である労働者には出勤という朝の一大行事が待ち受けているため、そんなことも言っておられず、固形を液体と共に摂取しながら、嚥下することになる。
 粘り気のある米は、相当元気でないと食べられない。腹持ちがよく体質にも合っているため、できれば米ないし粥を食べたいところだが、体調にも時間にも余裕がないヨロヨロとした成人人類には、休日の二度寝三度寝したあげくの朝兼昼にありつくことが多い。ビジネスホテルの朝食バイキングに並ぶ粥が恋しい。年若いころには「朝から粥なんて……」と思っていたものだが、歳月を重ねてくると、寸胴鍋にたっぷり拵えられたあの粥のありがたみがわかるようになる。
 そうなると、手軽に入手できる炭水化物としてパンがあげられる。パンは牛乳か、コーヒーか、インスタントのスープと合わせれば、食べやすいので重宝する品物だ。もちろん味も美味しい。体調が良ければハムチーズトーストにしても良いし、機嫌が良ければバターを塗りたくったあとにジャムを乗っけてもいい。体調も機嫌も芳しくなければ素焼きのまま、モソモソと口に運んで牛乳と一緒に食せばいい。体質として小麦粉への不耐性があるのか、あまりたくさん食べると胸やけを起こすのだが、出勤前の忙しないセレモニーに寄り添ってくれるパンは、人生の良き友として存在している。

 その日はめずらしく、比較的機嫌よく起き、スヌーズなしで起床した。いつものようにカーテンと窓を開けて、朝食の準備から始める。体調も悪くないので、六枚切りの食パンにハムとチーズをのせ、黒コショウを挽いてアルミホイルでふんわりとくるむ。ストーブの上であたためていたヤカンと交代に置き、しばらく放っておけば上手いこと仕上がる。我が家にトースターはない。冬の間は、ストーブが重要な調理器具のひとつになってくれている(メーカー推奨ではない使用法、念のため)。
 ほぼ沸いているヤカンの湯でコーヒーを淹れ、落としている間にシャワーを浴びる。ここでようやく身体のスイッチが入り、視野がわずかに広がる。朝の視野の狭さったらないものだ。寝ている際の夢のほうが、よほど広く世界を見ているような気さえする。身体の水を切り、ざかざかと身支度をして部屋に戻れば、そこには“朝”のにおいが広がっている。

 この朝を浴びるとき、わたしは学生時代を過ごしたアメリカを思い出す。天井の低いカフェテリアに、人影まばらなテーブル。長く座れば骨が痛くなるほど固い椅子、窓の外の霧たちこめる針葉樹の森、コーヒー、チーズと酵母と小麦の焦げるにおい。それが、わたしの触れたその国の朝の姿だった。

 夜にすすがれた朝という時間にはごまかしがなく、人も、世界も、ありのままになる。ありのままを見定めるのは時に苦しい。だからこそスヌーズがあり、セレモニーとしての朝食が必要なのかもしれない。

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