見出し画像

投資する理由を見誤らないようにしよう ~ 私たちはなぜ投資をしたほうが良いのか(1)

結論から言うと、投資をする理由は使うためです。これを見誤らないようにしましょう。投資はお金を増やすこと自体が目的ではないのです。つまり、投資は消費をするためのものであって金を貯めるために金を貯める・投資するのではないのです。だからまず使い道を考えることをここで強く提唱します。

間違いの少々おおげさな例は、小説「クリスマスキャロル」(ディケンス、1843年)の主人公スクルージです。彼が「守銭奴」と呼ばれるのは、目的なくお金を欲しがるからです。帳簿の上で自分の持つお金の額が増えることを幸せと感じるならば、それは守銭奴であって、投資家ではありません。幽霊に諭されて、彼はお金を正しく使い始めることで救われます。

人はしばしば気付かないうちに守銭奴になる恐れがあります。「いくらのお金を貯めたい」という希望は、最初は具体的な使い道があったかもしれませんが、いつの間にかそれ自体が目的になってしまうことがあります。そうなると、帳簿(分かりやすく言うと銀行や証券会社などから送付される残高報告書)の評価上の金額が増えれば幸せ、減れば不幸と感じるようになります。もちろん減ることは嬉しいことではないのですが、いま何をしようとしているのかをいつも思い出すことが役に立ちます。「いつごろ」「どんなふうに使う」お金についての帳簿を見ているのか、つまり目的を忘れないようにすることが肝要です。この「第1章 私たちはなぜ投資をしたほうが良いのか」では「いつごろ」「どんなふうに」について考えていきます。

さて、なぜ投資を「したほうがよい」のでしょうか。「まえがき」(前編後編)でリスクを取らない「貯蓄」とリスクを取る「投資」に言葉を分けておきました。ということで、質問し直すと、なぜリスクを取って「投資」をした方が良いのでしょうか。それは、多くの人がすでに十分「文化的な最低限の生活」を保障され、その意味で十分貯蓄をしているはずだからです(さまざまな理由で公的扶助が十分機能せず、厳しい生活に直面する方を無視してはいけませんが、ここでは本来リスクをとっても良い「多くの方」へのメッセージとします)。

いや、十分なはずはない、と思う人が多いでしょう。どのくらいなら十分なのか分からない(実は考えたことがない)人も多いことと思います。答えはもちろん人によって違うのですが、この章では考え方を提示します。
通常であれば健康保険、年金など(あるいはそうでなくても生活保護などで)最低限の生活は保障されている我々は、(扶助に頼ると言う意味ではないのですが)社会保険については受け取る権利があることですし、最低限以上の生活については「リスクを取って潤いを求める」に値する状態にあると思います。「十分」という言葉を「最低限」と「それ以上=潤い」に分けてみると、分かりやすくなります。最低限の保障がすでに見えている人は、それ以上の部分についてリスクを取り、潤いを獲得することがリーズナブルだと言いたいのです。

リスク、と聞いただけで嫌になったり、「やはりそうか」とがっくりきてしまったりする人もいらっしゃると思います。ここで理解しておく必要があるのは「リスクの報酬としてリターンがある」ということです。リターンのないリスク(「悪い」リスク)もあり得ますが、証券投資を考える場合、世界経済の長期的な発展から得られるリターンを享受するためにリスクを取ります。このリスクは、人々の努力の裏付けがあるので「良い」リスクと考えます。必ずうまくいくとは言えないが、「良い」意志に裏付けられていると考えるのです。違う言い方をすると、証券投資の世界では、前もってリターンがないと思われるリスクは存在できません。結果としてうまくいかないとしても、前もっては期待できるだけの理由があったはずです。詐欺など犯罪的な「投資話」を別として、通常の投資はリスクが高いほど(前もって期待できる)リターンが高いはずなのです。

ただし特定の株式(個別銘柄)や国・地域(通貨)への投資は、あまりにリスクが集中しているので、ここでは投資ではなく一種の「消費」(リスクを楽しむ行為)とみなします。儲かることもありますが、潤いのためのリスクとしては大きすぎます。「ちょうどよい」という意味での「良い」リスクである必要もあるのです。脳の衰え防止を目的とする勉強のための証券投資も一種の消費です。
証券投資を仕事としている人は別として、それほど詳細に勉強したり経済雑誌を読み込んだりしなくてもよい、働くのは世界の人々に任せ、しばし投資したことを忘れていてもよい、というぐらいが(「ちょうどよい」リスクを取った)潤いを得るための投資だと考えます。

第1章(2)に続きます)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?