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ドイツの環境問題とキリスト教についての考察

こんにちは。
私は現在、南ドイツに住んでいます。ドイツといえばお伽話にでてくるような小さな美しい村や田舎町が魅力的ですよね。

でも実際に田舎に住んでみると、とにかくしんどいです。
この独特の重苦しい空気に息苦しさを感じながら生活しているのは、私が外国人だからというよりは、単に田舎が自分に合わないからなのですが、そう思っているのは私だけではなく、都会暮らしに憧れる若者は年々増えているようです。この傾向と関連して、最近では若者のキリスト教離れも加速しているようで、昨年だけで50万人以上がキリスト教会から離れました。

南ドイツの田舎が息苦しい理由は色々あるのですが、この独特の雰囲気を作り上げているカトリック・メンタリティ、つまり人の考え方が大きな要因の一つに挙げられます。ドイツの大半のキリスト教徒が教会からキリストの教えを学んでいます。つまり聖書を読んでいるかと聞くと、答えはNEINなのです。教会の教えは絶対主義的な思想や権威主義的な要素があり、人間の罪や堕落、神の絶対的な権威への服従などが強調される傾向があります。絶対主義時代の誤った聖書の解釈を教え込まれて育った人が多いので、自己否定、多様性否定、人間否定という今の時代ではとうてい受け入れられない要素を肯定的に捉えなければならないという状況下にあります。

このような状況は、年配の方々にとっては伝統的で価値のあるものとして受け入れられる一方で、若者にとっては時代遅れの考え方と映っているように思います。ですので、ドイツでは若者や自律心のある人は都会に移り住む傾向があり、そうでない人は田舎に住むことが多くなります。そのため、田舎には同じような価値観や気質の人々が集まり、バイエルン地方の村のような独特の雰囲気を生み出していると考えることができます。

田舎のカトリック教徒は、自然に囲まれた環境の中にいるにも関わらず、自己の中にある自然的なものを否定しながら生きてような気がします。だからこそ自然を思う気持ちがなおさら強くなるといえます。彼らの中には、何となく村のあり方に違和感を覚えていても、教会を否定することは怖くてできないという人もいるのではないでしょうか。だから自然の中で共に生き、愛することによって心のバランスを保っているようなところがあると思います。

庭を見ても、自然に対する思いを感じることがあります。田舎の庭は完璧なほど念入りに手入れされているのです。もしワイルドガーデンのような自然な状態になっている庭を見ると、「あの人の庭どうしちゃったんだろう?」という考えになってしまいます。フランスのヴェルサイユ宮殿のような庭を美しいと感じるか堅苦しいと感じるかは人それぞれだと思いますが、絶対王政の時代には、人間が自然さえもコントロールできるという考えが好まれたので、あのようなスタイルの庭が好まれたのです。また、自然災害が少なかった地域であったこともこのような考えを肯定することができた要因の一つだと思います。

このような環境の中で、キリスト教を肯定すべきか、自分を肯定すべきかという疑問を抱く人がいてもおかしくなかったでしょう。プロテスタントは、自己肯定を高めながらキリスト教の教えを守るには、労働を通じて社会に貢献することであり、そうすることで縛られから自由になることができるという思想を生み出しました。

ナチスドイツはこの質素倹約の精神を利用し、勤勉なユダヤ人に「働けば自由になる」という皮肉な言葉を投げつけました。しかし実際に働けば自由になるのでしょうか。プロテスタントが聖書と向き合い得た教えは、働けば自由になるのではなく、自由になって働くことの大切さを実践によって示すことでした。確かに聖書には、自分を苦しめる制約や束縛から解放されることによって、本来の自然な状態と調和し、自己の真の表現を実現することができるといったことが書かれています。

近年では自然を支配したり軽視したりするのではなく、共存するという思想が、ドイツ社会でも広まってきているようです。この考え方は、自己の内面のバランスを取ることを意味するものであり、一部の人によっては東洋の中道的思想を生活の中に取り入れる試みといえます。つまり、ドイツの環境問題は、環境についての議論に留まらず、ドイツ社会とそこに暮らす人々を宗教以外の普遍的かつグローバルな価値観で結びつけようとする、新たな取り組みの一環と捉えられます。この取り組みは地方派と都会派のメンタリティ、それに伴う経済格差、移民と宗教問題などで社会が分断されている課題を解決するためのものでもあると思います。