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上久保ゼミ新たな展開(1):「やったふりの農耕型教育」から「狩猟型教育」の実践に

上久保ゼミは、今年から新たな展開をいくつか考えている。

まずは、1限の「競争力養成プログラム」を来年度から正課の授業にすること。

1限は、元々2代目(ちなみに現在14代目)の有志が自主的に始めた「サブゼミ」であった。当初は私が出席せず、教授会に私が出席している時間帯(逆に、教授会があるので、授業がない時間帯に集まるという考え方)だった。

それが、その時間帯も語学の授業などで埋まるようになったことで、ゼミの前の木曜1限(ゼミは2限から)が集まりやすいということになった。その上、コロナ過でリモートになった時に、有志でなく、全員出席となり、私も出席となった。

こうなると、正課の授業と変わらなくなるし、全員となると「単位が出ない」ことを気にする学生が出てくる。タイパ・コスパ意識の強い今の学生に、昔からやってきたからだけでは通用しない。

ということで、来年度から「集中セミナー」という正課の科目とすることにした。単位が出れば、学生はその分1つ授業を取らなくてよくなるので、よりしっかりと取り組んでもらうことができるというメリットがある。

「集中セミナー」の詳しい説明は省くが、成績評価に関して、学生に求めるのはゼミの成果である「卒業論文」以外の「成果報告」を求めるという規定がある。

「成果報告」は、普通のゼミはどこかにフィールドワークや合宿にいって、その成果を出すというのが普通だ。ただ、それでは物足りないと考えている。

私は以前から、日本の教育の問題点を「やったふりの農耕型教育」だと考えてきた。

この内容を簡単にまとめると、日本の学校では、先生など「大人」が、農地のようなものを用意する。土を入れ、水、肥料や種、農耕具を用意する。親がそこに子どもを連れてくる。子どもに「さあやってみよう!」といい、子どもが自分で種をまいたり、肥料や水をやったりして食物が育ち、刈り取るまでやると、「主体的にやった」と喜ぶ。お父さんやお母さんが、それをスマホで撮影し、「思い出作り」をする。

学校は、農地を用意するのに、「文科省」とかからお金をもらっているので、立派な作物ができたにしないとヤバい。だから、子どもに失敗させられないので、必死で手取り足取りやらざるを得ない。無事に作物を刈り取ったら、「成功した」と報告する。

世界中の教育、若者に接してきた私からすれば、日本の教育はおそらく世界一忙しい。子どもは最高にいろいろなことをさせられ、しつけられている。いろいろ言われるが、いまだに世界一であるのは間違いない。

ところが、これだけ立派にしつけられているのだからと、「じゃあ、自分でやってみなさい」と言うと、とたんに思考停止する。「せんせー、なにをやったらいいんですかー、まじでー」てな調子なのには、本当に驚かされる。

これだけ教育されているのに、いわゆる主体性がまったくないのだ。それは留学生など世界の若者と比較するとより顕著だ。要は、手取り足取りやらせているので、自分でなにも考えられないし、なにもできない。

この集中セミナーも、先生がすべてを段取りし、学生はその中で主体的な学びをやったふりの充実感を感じるだけというものに堕してしまいかねない。

そこで、「やったふり農耕型教育」を排除して、真の主体性を身に着ける「狩猟型教育」を実践する。

ゼミ生1人1人が、それぞれ自分がフィールドワークする場所を探して、自分でコンタクトを取り、成果を得て、ゼミに持って帰るのだ。

「農地」の中で、みんな一緒にやるのではない。「穴」から出て獲物を自分一人で刈り取って戻ってこいということだ。

具体的には、1人1人が、自分の研究フィールドに行ってくる、学外の研究発表会に出て賞を取ってくる、学外の政策課題の議論の場に行ってくる、などなどである。

実際に科目になるのは来年だが、今年はその準備期間と位置付ける。まずは、1人1人に「学外活動の計画書」を作ってもらった。

いろいろな計画が出てきた。例えば、学外の研究発表会、1人1人に探させると、これまで私の目に留まらなかった、実にいろいろなコンペがあるものだとわかった。

また、1対全員のディベートトレーニング・クリティカルアナリティクス(CA)を、近隣の高校に広めるというのもあった。実現はハードルが高いが、やってみればいい。

もう、すぐに始めるようにゼミ生には言った。来年賞を取るにしても、今年一度挑戦して、どんな研究発表を、どの程度のレベルで求められて、ライバルはどんなレベルなのか知ることは重要だ。敵を知り、己を知れば百選危うからずである。

まあ、負けてもいいのである。うまくいかなくてもいいのだ。大人が予定する結果を、予定通りに出しても、本当の学生の成長にはならない。

自分の味方が1人もいない、自分の常識が通じない、そんなところで独りで戦ってこそ、ほんとの自分の力を知る。上には上がいることを知る。自分の得意な型で戦えない時に、どう戦えばいいかを知る。どんな社会に行っても、生きていける力をつけられる。

「やったふり」はもういらないのである。




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