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上久保ゼミのクリティカルアナリティクス:「当選するつもりがない候補者の立候補を認めるべきかについての是非」

7月4日(木)1限:競争力養成プログラム

今週末は東京都知事選の投開票。今、もっともホットな議題といえる。学生の議論は以下の通り。

上久保の言葉。
立論者(1人)が、「認めるべきではない」。討論側(全員)が「認めるべきだ」という立場。立論者は今、国民の多くが心の中で思っていることを代弁してくれたと思う。でも、それは実際は難しいということを討論側が多角的に指摘してくれた。

「当選するつもりがない」ということを証明するのは難しいだろうと思う。また、それについてなにかの基準を設けるというのは、自由民主主義社会では筋が悪い話だと思う。

歴史的に、自由民主主義が獲得してきたことは、誰でも政治参加できるということだからだ。

かつて、選挙権が18歳に下がった時、「有権者教育」が高校で行われてきた。でも、中立でなければならないとか、いろんな問題があって、結局、「投票箱に票を入れる練習」をするという、笑うに笑えない話になった。

結局、「いい有権者」ってなんなのかという話だ。例えば、高校や大学で勉強した人は、すでに働いている人より「いい有権者」なのかといえば、そんなことはいえないわけだ。現場で素直に感じることが、貴重な一票であるかもしれないのだから。

だから、私は「有権者教育」など必要ないと言った。日本には議会があって、議員は選挙で選ばれて、選挙には18歳以上の全員が投票できる、ということがわかっていればいい。それは、義務教育の中学で習うでしょ。それだけでいいのだ。

話を戻すが、私は例えば、極右や極左のポピュリストなどは、排除するよりも、一度政権を担当させてみればいいとずっと言ってきた。

やってみればわかるからだ。実際に政権を担当すれば、人気取りの調子のいいことばかり言ってられないという現実を。

これまでも、世界ではポピュリストと呼ばれた政治家が、政権を担当すれば、次第に現実的になり、普通の政治家になって人気をなくしていくのをみた。

政権を担当する前でも、次第に政権の座が近づいていくと、現実的になり、穏健になっていく。フランスのマリーン・ルペンがそうだ。父親のジャンマリ―・ルペンは、ほんとに移民を追い出せ、ナチス万歳くらいなことを発言する、筋金入りの極右だったら、娘のマリーンは、今では穏健な、ほぼ普通の保守になってきた。

だから、私は日本でも、とんでもない品格に欠ける政治家が出てきても、淡々と受け止めることにしている。そのうちに消えるか、生き残るならば、おそらく現実的な政治家になるからだ。

自由民主主義にあって、権威主義、全体主義、共産主義、軍事政権など他の政治体制にないものが1つある。

それは、国民が政権の失敗を知ることができて、その失敗を選挙を通じて政権交代させることで、正すことができることだ。

考えてみればいい。他の政治体制だと、まず政権によって失敗は隠蔽される。国民は失敗を知ることが難しい。やっと真実を知った時は、国家が崩壊する時だったりする。例えば、大日本帝国の大本営発表と無条件降伏をみればいい。

国民が政権の失敗を知ったとしても、政権を後退させるのは大変なコストがかかる。まず、選挙は不正ばかりで機能しない。そうなると力で交代させなければならないかもしれない。場合によっては革命が必要だ。血が流れる。死者が出るかもしれない。

優秀な指導者がいる時は、どんな政治体制でもそれほど問題はない。だが、ダメな指導者が現れた時に、その政治体制の真価が問われることになる。ダメな指導者がダメだということを国民が理解でき、低コストで交代させられるのは自由民主主義だけなのだ。

だから、私は日本においても、品格に欠ける政治家が出てきても、淡々と受け止めることにしている。どうせそのうち消えるからだ。生き残った時は、穏健な普通の政治家になっているだろうからね。







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