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『ごろごろ、神戸』を読みながら

  こどもに感受性が芽生えてきたのがおもしろく、今年はたくさん出掛けようとお稽古や旅行の計画を立ててたのしみにしていたが、すべてなくなり家にいる。今は誰もがおなじだろうし、私たち歴史のなかにいるなぁと、毎日思う。前とまったくおなじ生活、おなじ私には戻らないんだよなと、それはどんな状況でも当たり前のことのはずなのに、ひしひしと感じる。

  これまで私が前/後をつよく感じた出来事は小学三年生で経験した阪神淡路大震災だった。前/後で、見えるもの、信じるもの、世界がすべて変わった。これはおとなもこどもも関係がなくおなじで、これからも生きていく人間みんなに平等に宿る感覚だったと思う。この、生きていく、という言葉の本質を理解したのもこの時かもしれない。大切なひとやものを失った悲しみでなにも語れなくなるひとを見てきた。そのひとは今、となりに座るこのひとかもしれない……と、神戸では電車に乗るたびいつも考える。なにも言えなくなってしまった一番傷ついているひとに代わって、二番目三番目の人々が声を上げていかなければ。いつかやらなければという思いが、かつてこどもだった私にもずっとある。この大変な暮らしの今を過ごすこどもたちにも、必ずなにかが宿るはず。焦らずいようよと思いながらニュースを見ている。しかし最近また地震が多くて心配。

  『ごろごろ、神戸』は私が今年一冊目に買った本。子育てを機に神戸で暮らし始めた著者・平民金子さんのエッセイ集。年が明けると強く意識し始める1月17日を前にTwitterで知り購入した。ごろごろ、はベビーカーを転がす音だ。著者がベビーカーにこどもと愛犬を乗せて神戸の街、下町、山から海まで網羅する。私は今、東京の下町で子育てをしているので風景が重なりたのしくなる。散歩に出ると道行くおじちゃんおばちゃんに話しかけられるのは日常茶飯事で、みんなが立ち止まるから「なんだ? 有名人か? 」と人だかりができたことも。そんな温かい行きずりの距離感が戻る日が待ち遠しい。平民金子さんの震災体験や、むかしの神戸の面影がふいに現れる描写も多く、語ってくれてありがとうという気持ちが湧く。分厚い本なので書籍版とKindle版の両方を買って眠る前とかに一編ずつチョロチョロ読んでます。

  神戸どころか近所のスーパーさえ遠く感じていたなか、オンラインで購入した〈六珈〉の珈琲豆が届いて一気に神戸が身近に戻った心地がした。阪急六甲駅ちかくの〈六珈〉は私がいちばんすきな喫茶店。パウンドケーキがひえひえで美味しいんだ。もちろん口笛文庫に寄って宝探しをするのは外せない。

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