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5 雨の日の思い出(胸キュンときめき短編集 1)

 コツンコツンとフロントガラスを叩く雨音。少しずつ強くなり、前方を滲ませて私の視界を妨害する。ワイパーを動かし、視界がクリアになったところで、「雨が降ると思い出すなあ」と心の中で呟いた。

「やっぱり、あなたとはやっていけない!」

 そんな捨て台詞を残し、上はTシャツ、下は短パンのまま、サンダルを履いて部屋を飛び出す私。綺麗な月夜の街で感傷に浸りたいと思ったのに、月も星も見えない空からは、降り始めの雨がぽつりぽつりと頭の上に落ちてくる。

 「やばい、傘!」と思ったけれど、彼のいる部屋に戻る気にはなれず、仕方なくそのまま歩き始めた。後ろから勢いよくドアが開く音がして「美奈―!」と叫ぶ声が届く。「嫌だ、恥ずかしい!」思わず私は、力一杯走りだしていた。

 元陸上部、足には自信がある。でも、Tシャツと短パンまでは良かったけれど、サンダルで走るのはきつい。元サッカー部の竜司にすぐに追いつかれてしまった。

「待てよ!」
「嫌だ!」
「どこ行くんだよ?」
「知らない!」

 私が結婚の話を切り出しても、全然真剣に考えてくれない。「そのうちな」いつも決まった言葉ではぐらかされてしまう。「もう、ついていけない」それが本音だった。

 竜司が私の左腕を掴む。「痛い!」思わず叫んだ。手を離した隙に、再び走り出す。「おい、待てよ!」その声を尻目に、住宅街を抜けて河川敷に向かう。近所迷惑だし、大声を出すのにちょうど良かったから。

 土手を降りる頃には歩きだし、少し進んだところで竜司に捕まった。今度は後ろからのハグだった。

「怒るなよ……」

 右耳に囁かれた言葉が、胸の奥に沁みていく。私は右耳への囁きに弱い。

「ごめん、悪かった……」

 密着する頬と頬。右耳への優しい囁き。後ろからの力強いハグ。私の弱点を知り尽くしているこの人には敵わない。

「怒ってないし……」

 好きだから、本気で怒れない。別れたくない。嫌われたくない。結婚してほしかったのは、一日一日おばさんに近づいている私の焦りなの。

「俺で良いの?」
「えっ?」
「結婚するのは、もっと収入が増えてからと思ってたんだけど……」

 優しい……。頭が良くて現実主義、いつも計画的で冒険はしない。私と結婚して養っていく自信がないから、プロポーズ出来なかった。

「私も働くよ」
「うん、ありがとう……。でも、子どもが出来たら働けなくなる……」
「大丈夫、私あげまんだから。あなたの収入が上がるから心配しないで」

 彼がくるりと私を回して、今度は正面から抱きしめた。雨がどんどん強くなって、いよいよ土砂降りになってきたけど、降るなら降れ、私たちの愛は雨なんかに負けないぞ!

 見つめあう二人。これ、ドラマのワンシーンみたいだ。東京ラブストーリーのあの曲が始まる気がする。

「ねえ、キスして……」

 私が目を瞑ると、彼が唇を重ねてきた。その瞬間、雨の音が消えて、何も聞こえなくなった。頭の中で、オーケストラが演奏しているイメージが浮かぶ。

 ひとしきりお互いの温もりを感じ合った後、彼が優しく促した。

「もう帰ってお風呂に入ろう」
「うん……」

 頭からずぶ濡れのまま、二人は手を繋いで歩き始めた。誰もいない、二人だけの世界。

「ぐごごごご!」

 突然、助手席から聞こえた大きないびきで、私は現実の世界に引き戻された。あんなにカッコよかった彼が、今は中年太りのおっさんになっている。まあ、私もおばさんになったから仕方ないけど。

 ミラー越しに、彼と同じように寝ている息子の姿が見える。私はハンドルを握りながら、思わず笑いだしてしまった。

胸キュンときめき短編集

1 雨の日の出来事
2 折り畳み傘
3 雨の河川敷
4 約束の日
5 雨の日の思い出
6 野球部の彼
7 ハネムーンの朝
8 雨の日の初恋
9 クリスマスの贈り物
10 幼馴染み


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