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「箱」と対峙するー序ー

博士課程として先日やっと論文を投稿し,後期の研究計画でさまよいながらもとりあえず歩き続けてる院生です,こんにちは.
夏休み前に研究室でこんなものを書いてモヤモヤしていたら,後から来たB4の後輩に「ガリレオ(多分ドラマの方)みたいですね」と言われたけれど,実際そんなに大したことは書いていない.

今日から何回か,できれば長くしたくないので3回くらいに分けて「箱」,特に「紙箱」の話をしようと思う.(単なる私の研究の話でしかない.)
というのも研究計画書の作成に飽きたわけでも読書会のレジュメ作りが終わったわけでもないし,やることはといえばちょっと今すぐに何個とは答えられない.だが,一旦研究対象として,私がパッケージデザイン研究を行なうに当たって,何故「紙箱」だったのか.
よくよく観察,分析,思考の整理,一言で言えばそれこそまさに『対峙』したかったからである.
結局のところ今日の序では,翻弄に翻弄を重ねた「方法論」についての話までしかできなかったのでつまらないかもしれないが了承いただきたいところである.

そもそも何故『対峙』だなんて大それたことをしようと思ったのか.きっかけは養老孟司先生である.ことの発端は,六本木の21_21で開催され,会期中二度も足を運んだ『虫展』である.内容は非常に面白く,その他にも展示方法に様々な工夫がなされていたのだが,そのひとつに養老孟司先生の著書からの抜粋文が会場の至る所に掲げられていたのだった.その中でも特に,心に留めている文があった.

『先日は虫を一日見ていた.ゾウムシの頭である.どうしてそんなものを見ていたかというと,どうもよくわからないからである.』(『虫の虫』廣済堂出版)

はあああ,なるほど.
確かにわかっているものを見ているわけがない.何故ジッと見てしまうのか,というとわからないから,思案を巡らせ,ああではないか,こうではないか.そう思いながらじっくりと『観察』するように見てしまうから長い時間をかけて見てしまうのだろうと.

そこで一度私の立場に戻りたい.
私は大正期の紙箱(紙小箱)というパッケージデザインをデザイン史の領域で研究しようとしている.しかしどうしたことか,方法論ともいう,愛着の湧いた「紙箱」へのアプローチの仕方,どうやって「紙箱」を料理(研究)してやろうかということが全くわからないのだ.
前期こそさわりだけ社会学を見てみたり,メディア研究の論文をパラ見してみたり,デザイン領域で行われているパッケージデザイン研究を見てみたり,パッケージデザイン協会にもお世話になったりした.大正期の研究をしている先生方が所属する学会にも所属しているし情報の入手・共有や勉強の仕方を模索していた.(現在進行形でもある.)
よく考えれば色々してみたものだ.それでも方法論の確立とは何かを理解していなかったがために助教と話が互い違いになることもあり,堂々巡りしてはンンン?と首を傾げていた.指導教員のヒントは面白く,箱に関連しているがその二項をどのように関連づけるかによって,また私の研究というものがどの領域,どの立ち位置に当たるのかが不明瞭になる.

先日は所属大学の表象文化論の先生と対話をした.意見交換と言って許されるのかわからないが,今感じているもやもやとした,「デザイン領域でなされているパッケージデザイン研究とは違うパッケージデザイン研究がしたいです,あ,かつ紙箱で…」と訴えた.というのも,デザイン領域におけるパッケージデザインの研究はどうも工学的に思えたからだ.商品,製品を梱包しつつ製品情報を記載しなければいけない,情報を伝達するツールとしても機能するため,消費者へのアプローチやメーカーはどこを重要視すべきか等SD法による検証実験,感性工学,色彩学などどれも数字が付いて回った.

ここで一度考えた.
私の取り扱いたい「紙箱」は何か.

もちろんパッケージデザイン研究として,デザイン史としての研究でありたい.しかし,同時に数値で測れるパッケージデザイン研究は修士の研究で行なったようにマーケティングの分野にも重なっている.
いや,そうではないなと思った.パッケージデザインのグラフィックはもちろんグラフィックデザインの研究室に在籍していたため興味がある.そのグラフィックと同時に小箱に印刷する技術,そして広告ポスターと違う,大量生産されて消耗品であるパッケージデザイン,小型化していく包装と社会的背景や洋装の普及などの文化史.
ただのパッケージのグラフィックの研究ではなかった筈である.だが,このままでは知りたいことが多過ぎるため絞り込みをかけなければならない.
そして,指導教員や助教の勧めもあり表象文化論の扉を叩いたのである.

そこは未知の世界の入り口でもあり,迷路の入り口でもあり,同時に何かエジソンの電気のような,ひらめきすら感じた摩訶不思議な空間なのであった.
とかく大学の先生方は本当にものを知っているし知識人過ぎて逆に恐れすら感じることもある程だ.だからこそ「先生」をされているのだろうけれど.よく私の研究のもやもやに対して,お話を聞いてくださる先生方はまず最初に「私はその分野の専門ではないからアレだけれど…」というような入り方をする.その言葉は非常に気を使ってくださってるんだと思う.しかし話し始めると,その前置きは不必要だったことがすぐにわかる程,先生方は色々な分野に精通されておられるのだ.ただ,自分の専門領域を持って特化しておられるだけで,その背景にある多角的で広い視野をお持ちなのだ.その土台には共通する基礎情報であったり,方法論の原石状態のようなものが会話の中にコロコロと転がっているのだ.学生である私は到底及ばない.
それを拾って行くのが私のやるべきことであり,その原石たちと私が持ち合わせている石を入れる箱をどうやって収めてやろうか.そう考えていくと,パズルのようにまた可能性が増えていくのである.

可能性は無限大とも思う.例えば,私の「紙箱」という研究を箱に見立て,その中に更に小さな箱が仕切りのように分かれているとしよう.そこに知りたいと思っている「〇〇」という項目の箱があったとする.そこに先生方が話してくださって自分で拾って選別した方法論の原石を入れるのか,もしくはその隣の「△△」という箱に入れるのかによって,私が今取り扱おうとしている「紙箱」という研究の大きな箱の中では様々なレイアウトが組まれることになる.それは順序立てた箱に順序立てて石を入れて綺麗に並べるのか,それともランダムに石を並べてみるのか,その項目の小箱に入らない石があるかもしれない.その場合は止むを得ないので別の箱に収納するか,メモ書きを残して石を捨てるのか.そういうことになってくるのかもしれない.
すると自然と,この石の入れる法則が私の研究における方法論なのだとわかってきた.適当にむやみやたらと石を箱に入れても収まらないのは,方法論が確立していないからであり,箱も綺麗に収まらず研究の箱自体が崩壊しかねない.

方法論という言葉について,博士課程の友人に相談する機会があったので色々とヒアリングはしてみたが,単一化されていたり自ずとその方法論だったということが多かった.
私がこの言葉を解釈するまでにかかった時間は半年くらいであり,現在はなんとまだ模索段階である.少しずつ見えてきたとはいえ,難しそうと言われど一番面白そうで,やりたいと思っていたことに近いのだ.多少難しくとも,寧ろ簡単なことに手を出して楽をするのも手は手だが面白くはないだろう.

今日は方法論という言葉と箱の研究をするにあたっての序章として,ここまでを記録兼整理しておきたかったのでここに記す.
表象文化論の戸を叩いた私の話は次回にするとして,あとは博士の学生として現在ベンヤミンのパサージュ論を勉強したいのだが,助教に沼に溺れないようにとの忠告をいただいている.

ではお後がよろしいようで.

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