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言葉にすることの重要性について

中の人1号は大学で教員をやっておりまして、普段から学生さんを多く見ています。また4年生になると就職活動やら進学やら進路関係でアタマがいっぱいになる学生さんを毎年見ている次第です。

そんな中で一番気になるのが、「自分という存在を言葉にして表現すること」です。私自身も大学生くらいの頃は、オトナの考え方や行動に触れて「モヤ」っとすることが多かったと思います。上手く言い返せない、適切な言葉が思い付かないといった種の「モヤ」。大学生の頃の自分は「自分に対する言語化」が足りなかったということは、今となっては痛いほど分かるのですが…。自分を表現する言葉を構築するためには、自分の中の言葉のネットワークを構築するというか、自身を客観視するというか…。人によってイメージの捉え方や表現方法が違うとは思いますが、私はこの言葉と言葉を繋がりを「ロジック」と表現しています。自分の中で言葉のロジックが構築されていない所に、相手に伝わるはずもなく、況してや自分自身に対しても説明できないということにもなってしまう。先ず、自分という存在についての言語化が不可欠と私は感じています。

大学生の頃、サルトルの「嘔吐」という本を読んでみたのですが、(以下ウロ覚えです)主人公であるロカンタンはマロニエの根を見て嘔吐してしまう。何に気持ち悪くなったかというと、言葉にする(意味分節化する)以前の(原初的な)モノに対してであり、何か老子の「混沌」の話と似ているのかな~という印象を受けた記憶があります(学術的に間違えていたらごめんなさい)。
当たり前の話かもしれませんが、人間は物事を言葉で以て「分かつ」ことによって「分かる」生き物であるらしく、この言葉で以て「分かつ」ことは所謂言語活動であり、日常的な知的なトレーニングが必要となることは自明です。自分という存在を相手に説明するにおいても、この「分かつ」トレーニングが必要であり、これをファシリテートすることが教員の役割かなぁ、などと考えています。

昨今COVID-19により経済活動など色んな所に影響が出ていますが、学生さんの就職活動もCOVID-19を境に厳しくなっていると感じています。私(中の人1号)自身、何が出来るかなぁ?ということで、私なりの言葉と言葉のつなぐ方法論となり恐縮だったのですが、産婆術的に1つ1つの言葉を生み出すのを援けながら、それら学生さんから発された言葉の位置関係を問答から繋ぎ合わせて「ロジック」を作る作業をすることで、就職活動の支援をしてきました。アタマをフル回転させながらこの産婆術的作業を行うことによって、学生さんも自身の「モヤ」が晴れた表情を見ることをとても嬉しく思うと同時に、私自身にとっても「ロジック」構築法について非常に勉強になるということに改めて気付かされました。

私も考えてみたら、「モヤ」は言語化をファシリテートしてくれるオトナの存在があったなと思いますし(今となってはこの上なく感謝しています)、逆説的に考えれば、「モヤ」が晴れなければ、自分という存在を相手により良く説明することが出来ず、結果的に自分を嫌いになっていたかもしれないなと思います。今もって言葉にすることの大切さを身に染みて理解している次第ですが、昨今、若者の間で「自己肯定感」がキーワードとなっている様子であり、恐らく「モヤ」だらけの若者が多いんだろうな、とオジサンは感じています。

私が行ってきた産婆術的な取り組みについて、学生さん達から「先生~YouTube動画にしてよー」というプッシュもあり、私は心理学や論理学の専門家でもないですが、自分なりのやり方をまとめてYouTubeにアップしてみました(↓)。かといって、例えば字幕をくっつけるとか、デジタル化されていないオジサンにとってこの上なく面倒くさくて中々進まないですが、取り敢えずオジサンがZoomとスライドを使って何か喋っている様子でも若者のプラスになるなら、と思ってアップしています。

私(中の人1号)自身、別に名誉欲とか自己顕示欲とかもなく、そのためにこのnoteやらYouTubeやらをやっているわけではありません。自分が若い時に感じていた「モヤ」と、今目の前にいる学生さんの「モヤ」がシンクロするところが多分にあり、純粋にオジサンとしてはこの現状を何とかしたいなという気持ちで行っています。自分の過去の経験を考えれば「モヤ」な自分はやはり苦しかったですし、きっと目の前の学生さんも「モヤ」で苦しいんだろうな、と。

恐らく一般に、自分という存在を言葉で説明できるようにする作業を「自己分析」と言うと思いますが、一人でも多くの若い人がこの種の自己分析で以て「モヤ」を解消させることのキッカケになれれば嬉しいなと思っています。

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