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[小説]君がため春の野に出でて若菜つむ(文・苹果)

 あ!
巣穴から顔を出した兄さんきつねは叫んだ。巣穴の外は、昨日とは様相が打って変わっている。一面真っ白だった地面には、雪が解けて丸く土が見える場所が何か所もでき、白地に茶色の斑点模様のようになっていた。その斑点の真ん中には、かわいい黄緑色の芽が必ず生えている。春が来たのだ。

 これは体を温める葉。これは震えを止める葉。
兄さんきつねは必死になって、出てきたばかりの草の芽を摘んだ。
 それから、これは君の好きな花。まだ蕾だけれど。
巣穴の中では、妹が眠っていた。
小さく、冷たく固くなって。

「この黄色の花は頭痛に効くのよ」「この丸い葉っぱをかじると体がほかほかするのよ」母さんに、いろんなことを教わった去年の春。
「今年はお兄ちゃんになるんだからね。しっかりしてね」母さんの言葉。嬉しくて誇らしくて、胸がいっぱいで。それで一生懸命、いろんなことを覚えたっけ。

母さんは美しかった。月のような金色で、豊かな毛並みを風になびかせて走る母さん。冬になって、寒くなるほどにどんどん美しくなった。だから。犬と鉄に注意しろとあんなに言っていたのは母さんだったのに。鋭い、胸に響く奇妙な音が森に鳴り響いたその日から、母さんは帰って来なくなった。

母さんがいなくなってから、兄さんきつねが食べ物を探した。兄さんきつねはなにもかもへたくそで、母さんのように立派な獲物は持ち帰れなかった。雪の中からしなびた木の実をやっと掘り出して、妹と半分ずつ食べたりした。
「もう大丈夫よ。お空から降りてくる白いふわふわをいっぱい食べたから、おなかいっぱいよ。だから、もうお兄ちゃんが頑張らなくても大丈夫よ」ある日、兄さんきつねが巣穴に帰ると、妹は嬉しそうにこう言った。その日から妹は本当になにも食べなくなり、いつも縮こまって震えているようになった。兄さんきつねがふかふかのしっぽでくるんでやっても治らなかった。

妹は昨夜、お空の森に帰ってしまった。
「お兄ちゃん、ずっとそばにいてね」ずっとずっとと何度も繰り返して、気が付いたら静かに目をつむっていた。

 もう少しだったのに。もう少しで、春が来たのに。
自分が不甲斐なかったために。兄さんきつねの頬を銀の雫がはらはら伝う。灰色の空から今年最後の雪が、ひらひら力なく舞落ちる。兄さんきつねの焦げ茶色の前足にもやわらかく落ち、青白く輝いて見えた結晶は、すぐに形を失い消えた。

 君がため春の野に出でて若菜つむわが衣手に雪は降りつつ

(文・苹果)

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