見出し画像

牧師さんと話して思ったこと

先日、牧師さんとお話しする機会があった。ただ話を伺うだけでなく弊社の事業についてお伝えした上で、いろいろな議論をさせていただいた。

その牧師さんは所属する教会から終末医療のホスピスに出向き、信者でない一般の患者さんを対象に緩和ケアの一環として「聴く」ことを提供されている。信者でない方が対象なので、神の教えを説くことは患者さんが望んだ時だけで、それ以外は聞き役に徹するのだという。どんな姿勢でお話を聞かれているのか、非常に興味深くお話を伺った。

1番驚いたのは、傾聴をするための方法論を教会は一切用意していないということ。自分にはかなり意外でもあり、自分のサービス提供のあり方と大きく異なったため、なぜなのかを考えてみた。

なお、これはあくまで自分が一人の牧師さんから聞いた話を自分が展開した仮説であり、もちろん教会の公式見解などではないことをお断りしておきたい。むしろ反証があればぜひお伺いしたい。

自分の限界を知るということ

まず印象的だったのが、自分が相手の話を聞いて理解できることには限界があるのだから、謙虚でい続けなければならないということを強調されていたことだ。それには非常に同意できる。分かったつもりになる、は聞き上手において最も避けなければならないことの一つだ。特に生死に関わる考えであれば、わかったつもりになることによるすれ違いは致命的だろう。

おもわず膝を打ったのが、「全知全能であるキリストは、人の話を完全に理解することができるが、私たち人間はそうではないという自覚を持たなければならない」というコメントだ。

ここにはポイントが2つあって、1つはキリストという存在をおくことで、自分たちの不完全さを戒めることができること。人間は不完全な存在であるということを、聞き上手という実践的な場において常に認識させる力があるのはすごいことだ。特にホスピスでの傾聴は、やりがいがあるだけに聞き手に万能感や過度な自己有用感が生まれやすい。それを神と比較することで戒めとするという仕組みは非常に素晴らしいものと思う。

そして2つ目は、努力をし続けることの意味を示すマイルストーン/ベストプラクティスが示されていること。つまり、「(決して実現は可能ではないが)世の中のどこかには、人の話を完全に理解できる存在があるし、人の心はそのように理解することができるよ」という前提をおいているということだ。これは聞き手にとって、人の話を理解する目指すべき究極が存在するという意味において、遠いけれども目指しがいのある目標が設定されるということだ。この仕組みもシンプルでありながら、堅牢なものだ。本当にそうかは別として。

傾聴の方法論がない

1番驚いたのが、ホスピスの患者さんのお話を聴くにあたって、どのような方法論やトレーニングが教会から与えられているのか、と聞いたことへの返答だ。いわく、「なにもない」と。「寄り添いなさい」がキーワードとして与えられ、そこからひたすら自分で考えながらよくしていくだけだという。先輩と同席して学ぶようなOJTのような仕組みもないらしい。

これは自分にとってはかなり意外だったし、あまりにも自分の仕事の進め方と異なるために違和感を覚えた。弊社がサービス提供をするにあたってはきちんとトレーニングを行うし、品質の最終責任を担うものとして検証の機会は必ず持てるようにしている。少なくとも聞き上手の品質を高める努力は、永続的に仕組みに組み込まれるべきものではないか。完全に現場任せというのは不作為にすぎるのではないか、もっと工夫や努力をすべきではないのか、と思ったのだ。

しかし、話を終えたのちに考える中で、そう単純な話でもないのかもしれないと思い至った。不作為ではなく、むしろ意図的に方法論を持たないようにしているのでは、と。これはあくまで私の仮説であり、牧師さんに検証をしているわけではない。私見に過ぎないという前提で以下にまとめてみたい。

キリスト教が傾聴において方法論を持たない理由

キリスト教という2020年にわたって存続し、数十億人の組織が今でも続いているのには、理由があるはずだ。そう考えると、方法論を持たないメリットも多くあることに気づいた。

① 話し手は、牧師に自ら考えることを望んでいる
② 2000年、数十億人の組織を維持するには個別具体的なマニュアルはないほうがよい
③ 教会にとっての顧客は信者であり、ホスピスにいる患者ではない


1つずつ見ていきたい。

①話し手は、牧師に自ら考えることを望んでいる

キリスト教信者でないものから見たときの牧師さんのイメージは、神と救いについて考えている専門家、だ。決してテクニカルなカウンセリングやコーチングの方法論を体系的に学んでいる人ではない。とくにホスピスにいる人にとって、自分が死と向き合っている時に話をする相手が、技術的な聴くテクニックをもっていてほしいか、と言われるとそうではなさそうだ。それよりもむしろ死について考え尽くしていることを(神を持ち出すかどうかはおいておいて)、真摯に自分の声に耳を傾け、一言二言、納得いく言葉をかけてほしい。あるいはただ聞いてくれていれば良い。テクニックや手法に依拠していると言われたら、逆にちゃんと聞いてもらえている気がしなくなるのではないだろうか。その意味では、宗教という人生をまるごと抱えることを前提とした対話の場において、方法論やトレーニングという表層的な行為は、むしろユーザーの体験を損なう要素として存在する可能性がある。

逆に、カウンセリングのような西洋的な科学に基づいたサービスを行う場合は、言語化され形式化されたトレーニングと試験をうけた臨床心理士であることが話し手にとって望ましい。ホスピスにおける宗教者には科学と逆の立場が求められるということだろう。

もちろん、実際に傾聴を提供しているものからすれば、死と向き合っている場において方法論や個別具体的なテクニックが無効かというとそんなことはなく、むしろ非常に有用であるし、テクニックなしで人間力だけで人の死と向き合う難易度は遥かに高いように思えるが、牧師という職業柄、聖書を通じて人間力が高まっており、その汎用的かつ高潔な人格があれば人の話を聴くこともできるのかもしれない。自分が話した牧師さんもそのような人格を感じさせる方だった。

② 2000年、数十億人の組織を維持するには個別具体的なマニュアルはないほうがよい

自分がここで何を言ったところで、相手はキリスト教だ。プロテスタントに限っても500年からの歴史があり、数億人を遥かに超える信者がいる。その実績がある以上、そしてそれに比較しうる組織が他にない以上、そのようなタイムスパンで組織を維持するには、対外的な方法論はなければないほうがよい、というのはありえる話のように思える。

聖書というまさにバイブルがある。企業でいえばビジョンであり、ミッションであり、バリューであり行動規範が全て詳細に書かれている。それだけをひたすら読み込んで自ら考え、そして時代にあった解釈はその都度必要な範囲で必要な人たちが作ればよい。そして公式に個別具体的な行動までを指示することは、むしろ陳腐化した際の失望や社会との乖離を招くために、ゆるいままにしておいた方が良い。進化論的な考え方でいえば、部分最適をしすぎた個体群は環境の変化に耐えられないというところか。組織がある程度の規模であれば変化に対応して自らを変えたり個別具体的な指示を変更すればよいが、キリスト教の規模になるとそれも難しいため、末端の行動は緩いままにし、そのかわり聖書をもとに自分自身で考えることを徹底する。

そう考えると極めて合理的な組織運営の方法のように思う。同時に、外から見て思うのは、管理組織としての運営については厳格なルールがあり、階層組織が完璧に構築されていることだ。プロテスタントではなくカトリックだが、コンクラーベの厳格な運用、細かい修正や議論を見れば、そこには継続的な改善と詳細な運用への情熱が注がれているのはわかる。内側には厳格に(かつ柔軟に変化させつつ)外側のサービスについてはむしろ現場まかせを徹底する、のが数千年続く組織をつくるためにはむしろ有用なのかもしれない。

③ 教会にとっての顧客は信者であり、ホスピスにいる患者ではない

最後は、即物的なビジネスモデルの話だ。おそらくだが、ホスピスにいる患者さんからも病院からも、多額の、すくなくとも牧師さんの生計や教会インフラの維持費を賄うような謝礼は発生していないと思われる。すると、教会にとっての顧客はホスピスの患者ではないという考え方が成り立つ。では誰か。信者だ。

直接、死に即しての話をするわけではない信者にとって、ホスピスでどのような会話がなされるかは、極論を言ってしまえば関係ない。むしろそれがどのようなプロセスで行われ、信者としての自分にどのように関係するかが重要だ。そう考えると、「マニュアルとトレーニングが用意されていて、それを半年間受講すれば誰でもきちんと話が聞けます」はダメで、「寄り添うことを考えて、本当の意味で死と向き合いなさい。それを自ら考え抜くことで神の教えに近づくことができるのです」と言われた方が、信者としては圧倒的に嬉しいだろうし、それでこそ聖書を読み、教会に通う意味が生じる。

ビジネスモデルということで乱暴に例えてしまえば、たとえば学習塾。学習塾は子どもの学力が伸びるかどうかは、親の満足度という要素の一つにすぎず、むしろ納得感や子どもにとって最適な教育がなされていると思えることが重要だ。

フランチャイズビジネスにたとえれば、フライチャイジーが本当に儲かるかは存続という意味で重要だが、フランチャイジーが儲かっているのはフランチャイザーがいるからこそと思い続けられなければ、ほっともっと/ほっかほっか亭のような悲劇を生んでしまう。バイブルがあるだけで具体的な教育を行わないことで、そのような不満足を生まない仕組みができていると言えるのではないか。具体的なトレーニングはいつか必ず不足感を生んでしまうが、聖書を読み続けていれば読み切って理解し終えた感覚には永遠に到達しないだろうから。

そう考えると、世阿弥が風姿花伝を書きつつも、実際には師匠が弟子に暗黙的に教えることを前提にしているように、余白や考え続ける余地を残すことが、組織およびコンテンツとしての有効な期間を伸ばすのには必要なのかもしれない。

最後に

改めて、当初お話を伺ったときは、傾聴の方法論を用意していないことに批判的な感想をもったわけだが、その裏にはかなり深い根源的な理由と、人間理解への視座があるのではないかと思い至った。いうまでもないがこれは牧師さんによるホスピスでの傾聴の価値を低く評価するものではなく、むしろ永続的かつ全員が満足する見事な仕組みであると強調したい。

ここまでの考えはn=1の牧師さんのお話から勝手に私が膨らめた妄想であるので、教会関係者の方や、あるいは他の宗教関係者の方でご意見がある方にはぜひお話をお聞きしたいと思う。仏教はどうなのだろうか?イスラム教は、ヒンズー教は?興味はつきない。


神山晃男 株式会社こころみ 代表取締役社長 http://cocolomi.net/