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もしも村上春樹の小説の主人公が傾聴をめちゃくちゃ頑張ったら②【動作編】

ウォッカ・トニックのおかわりをマスターが差し出すと、彼女はありがとうと一言いって受け取り、軽く口をつけた。僕はその間、ピスタチオの殻をむいて食べていた。

「あなたって、いつもピスタチオ食べてるのね。」

と彼女は言った。おいおい、それはないだろう、と僕は思った。普段の生活でしんどいことがあると僕をこの店に連れ出して、ひとしきりーそれは時に7時間にもおよぶー話し終えると何事もなかったように、きっちり割り勘で帰っていくのは彼女だ。そしてこの店はトニックで割った飲み物を頼むと必ずピスタチオがついてくる。彼女は絶対にピスタチオを食べない。だから僕は、彼女にとって不要なもの、会話で吐き出される忌まわしい日常生活のごたごたと、食べたくないピスタチオを受け止めているのだ。もう少し僕に敬意を払ってくれてもいいんじゃないかな。僕はそんなことを彼女に言おうとしたのだが、ふと異変に気付いた。

声が出ない。

つい1分前まで普通にしゃべっていたのに、声が出ないのだ。呼吸はできている。落ち着け、と僕は自分に言い聞かせた。痛みはない。ただ、しゃべろうとしてもどうやって今まで声を出していたのか、思い出せないのだ。どもるわけでもなく、自分の体から、しゃべることに関連するすべてのものがごっそりなくなってしまったようだ。まるで怪盗が深夜の美術館に忍び込んで西洋画を盗んでいったように。

彼女が僕を見つめている。

「大丈夫?ピスタチオが喉に詰まったの?」

僕は首を振った。

「そう?じゃあさっきの話の続きね。その得意先の上司が、メールを送ってきたわけよ。」

続けるのか。僕は少々面食らったが、まあ彼女らしいといえばそうだ。僕は半ばあきらめて、うなづいた。こうなればこうなったまで。僕は動作だけで彼女の話をどこまで聞けるのか、試してみようと思った。

「まあ怒ってるわけよね。Fxxkとは何事だ、日本だから許されると思ったのかもしれないが、わが社には米国から来ているものもいるんだって。でもF、U、C、Kってばっちり書いちゃったんならわかるけど、Fxxkで怒られてもねえ。」

僕は話している彼女を見つめた。まず視線が大事だ。相手の目を見て話を聞くことは、相手の言うことを聞いていることを伝える最も基本的なサインだ。これをおろそかにすると他のテクニックの効果は半減してしまう。ただし、ただ熱心に見つめればいいわけではない。特に日本人は、目と目が合い続けると緊張を覚える。だからずっと見つめ続けるのはやめたほうがいい。たまに長く見つめることで、その会話を特に重要に思っている、と伝えることもできる。仕事の際は、メモの手を止めて見つめるなどすると効果的だ。それから、見るのも瞳そのものではなく、眉間や、人によってはあごのあたりまでずらしてもいいかもしれない。不思議なことに、額を見ると違和感を強く覚えるらしく、何かついているかと聞かれることが多い。

また、こちらの目の形や瞳が与える印象、さらに言えば顔そのものによっても反応が変わるので、自分が相手を見つめたときにどのような印象を与えるのかは、理解をしておいたほうがいい。二重まぶたの高原の湖のような瞳の美少女に見つめられるのと、一重まぶたの三白眼を持つ中年男性にじっと見られるのとでは、どうしたって意味あいは異なってくる。好むと好まざるとにかかわらず。

それから瞬きだ。普段は意識する必要はないが、ここぞというときに瞬きを止めることは重要だ。もっとも、本当に熱心に話を聞いていれば、自然と瞬きのタイミングは調整されるようにも思う。逆に、放っておくと瞬きの数が少なくなる人がいて、そういう人は気を付けたほうがいい。瞬きを全くせずに話を聞いてくるのは、控えめに言って、不気味だ。

「それから37564よ。ミナゴロシとは、弊社に対する敵対宣言とも受け止められますって、メールに書いてあるのよ!」

僕は軽く目を見開き、それから首を振った。これだけで、なんてこったい、というニュアンスが十分に伝わる。

「おかしいわよね。勝手にサンナナゴロクヨンを、ミナゴロシって解釈して一方的に怒るって。」

僕は微笑んで、ゆっくりうなづいた。ほほえみは、相手の言うことに対する理解を示すのにとても有用だ。ただし、ほほえみの多用には副作用もある。ちょっと分かった風な感じが強く出すぎて、偉そうな感じになってしまったり、「あんたの言うことは全部わかりますよ」感が出てしまうのだ。傾聴全般に言えることだが、「わかります」よりも「もっとわかりたいから、聞かせて」という態度を示すことの方を求められている場合の方が多い。

「もうさ、笑っちゃったわよね。メール見て。それまでは悪いことしちゃったなとも思ってたけど、そのメール見たら、なんだかどうでもよくなって、しかも面白くなってきちゃったわけ」

彼女がメールの内容を思い出して笑顔になったのを見て、僕も自然と笑顔になった。ミラーリングといわれるが、表情を一致させ、声のトーンを一致させる基本動作だ。相手の心情を理解するために同じ表情、同じトーンになるのだ。実際に理解を深めるのにも有用だ。人はおかしいから笑うのではなく、笑うからおかしくなる、とはよく言ったものだと思う。

「まあ悪かったのはね、私がふふって笑っちゃったのが、オフィスの中で、上司がばっちりいたことよね。同時にメールが届いてたから、このメールで笑ったなって、上司はすぐに気づいたのよ。それで呼び出されてね。みっちり説教よ。」

さて、話を聞くときの姿勢だ。これはメタファーではなく、体のパーツをそれぞれどう置くか。まず大原則だが、腕と足は組まない。絶対に。日常生活の中でも、腕と足は組んで良いことは一つもない、と僕は思う。腕と足を組むときは、相手を拒絶していることを知らせたいときだけだ。それから、腕と手が見えているほうが相手は安心する。できればてのひらも見せたほうがいいが、ヨガの老師のようになってしまうので、よほどの関係性でないと難しいだろう。

あまり前のめりに話を聞くことはお勧めしないが、後ろにもたれかかったりのけぞっている姿勢はどうやっても熱心に聞いているような印象を与えられないので、90度より軽く前に倒すくらいがいいだろう。そしてこの角度も、相手の話の熱の入れ度合いに応じて少しずつ変えたり、会話の切れ目で揺らして間をあけるなどすることに使える。

相手との座り方だが、理想は90度だ。僕は今、彼女とバーのカウンターの角の席をはさんで座っていて、ちょうど90度になっている。こうするとお互いの表情もよく見えるし、目線も外したいときに外せて、ちょうどいい。完全に対面だと、緊張が生じやすいので本当はよくないのだ。レストランでも、4人掛けテーブルにはす向かいに座ったほうがいい。ただ、マナーとして不自然なので難しいところだが。

若干顔は見にくくなるが、通常のバーカウンターのように同じ方向を向く横並びも悪くない。もっとも親密になれるのはこの並び方だ。仕事仲間でも、新幹線で横並びになって話をしたり、レンタカーで運転席と助手席で話をすると、今まで話したことのない私的な話題になったりすることがある。これも並びによる効果ではないか、と僕は思う。

「上司の説教は長かったわね。まるでシベリア鉄道でノモンハンまで輸送されるソビエト兵のような気持ちだったわ。」

なぜか彼女は第二次世界大戦のいろいろをメタファーにすることが好きだ。なんでだろう?それはともかく、僕はただ彼女を見つめた。こういうときに下手にわかったふりや、面白がるそぶりを見せないほうがいい。ただ受け止め、シベリア鉄道でノモンハンまで輸送されるソビエト兵の気持ちを思い描くのだ。

「うん」

自然と声が出た。ようやく喉が治ったようだ。とはいえ、出てくるのはうん、とかはい、くらいだ。どうやらこの先は相槌だけで話を聞くことになるらしい。これから続く話のことを思ってやや気が重くなりながらも、僕は彼女に向って微笑みかけた。

多少わざとらしくても、表情を作ることはとても効果的だから。相手に作為が伝わったとしても、それでも相手はなお、話しやすくなる。

「あなたのほほえみって、たまにうんざりするくらいぎこちないわよね。まあいいわ。それでね、その説教っていうのがね・・・」

やれやれ。

神山晃男 株式会社こころみ 代表取締役社長 http://cocolomi.net/