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お坊さんと話して思ったこと

先日、牧師さんと話して思ったことという記事を書いたのだが、その後、お坊さんとお話をする機会をいただき、聞き上手に感する考え方についてもお伺いすることができた。そのことを少し書きたい。

エア寺という、物理的に存在しない寺をつくり、オンラインで瞑想をしたり、説法を聞いたりできる活動をされている方々を中心に、お話を聞くことができた。そこでお坊さんが傾聴、聞くことについてどのような態度、方法論をお持ちなのかを伺った。伺ったお相手としては真言宗、浄土真宗など、それから修験道の方もいらっしゃった。例によって網羅的に伺っているわけではないので、その点はご容赦願いたい。

教会と同じところと違うところ

基本的には、教会と同じで、聞き上手や傾聴に関して、統一された方法論はないということのようだ。一人一人の聖職者がそれぞれのやり方で、一般の信者をどう救うかを考えるべき、というのが根底にあるらしい。

おそらく仏教のばあいは、宇宙に関する根源的な問いをたて、それを修行の中で体得していく行為(悟り)が一義的に重要であり、信者に対するコミュニケーションのあり方は、その修行して体得したことそのものを伝える姿勢を持てばよい、ということなのだろう。

この辺りは、キリスト教のニュアンスとは若干異なるように感じた。牧師さんは信者のためにすべきことをしなければならない、救いを与えなければならないという使命感が強く、お坊さんはどちらかというと同じ修行中の身である我々、というスタンスの違いではないか。その意味では、その立ち位置そのものは、極めて傾聴的ではあろうかと思う。

説法・説話

途中である方に言われた一言が非常に印象深かった。いわく、「説法・説話というものがある。ある種、コールセンターがアルゴリズムを準備して、お客さんがいう言葉に合わせて回答を選んで機械的に答えるように、この悩みにはこの説法、というのを機械的に選んで話してしまう傾向がある」と。もちろん全てのお坊さんがそうではないだろうし、実際にそんなことはないと思うというお坊さんもいらっしゃった。だが、説法・説話という非常によくできたシステムが、非常に多くの檀家の悩みを解決する一方で、相手を個別に見られなくしてしまう危険性を内包しているとは言えるのかもしれない。

これは、本質的に宗教が「教え」を持ち、信者から回答を得たいという期待があるが故に、傾聴することが難しいという構造を示しているのかもしれない。傾聴は本質的に解を出さないことを前提にしており、解を与えることを所与のものとする仏教とは、実は相性が悪いのかもしれない。

日本におけるキリスト教が、ホスピスで傾聴を行なっているのは、ある意味で日本においてキリスト教が解を提示することを求められていないから、と言ったら言い過ぎだろうか。実際、前回お話を伺った牧師さんは、神について問われればその話をするが、基本は聞き役に徹するのみだ、神について聞かれることは稀であると言われていた。

以前、四谷三丁目にある坊主バーに行ったことがあるのだが、その時も、横で聞き耳をたてていると、何かの悩みや愚痴を言い、それに対してお坊さんが「それは仏教の教えでは◯◯と言われているもので〜」といったコメントをされていた。自分も坊主に愚痴を言うなら、そういうコメントをもらいたいものだと思った記憶がある。(余談だが、その時自分は「色即是空ってなんなんすか」と中学生の喧嘩のような問いをしていた記憶がある。そして答えを何一つ覚えていない。最悪の客であった)。

さまざまな試行錯誤

とはいえ、上記に挙げたようなことはある側面にすぎず、流石に真面目で真剣な方々が多くいらっしゃるようで、各方面でさまざまな試みがなされているようだった。カウンセリングやコーチングを積極的に学んでいるお坊さんもいるそうだ。そうしたコミュニケーションの技法を表面におき、中に仏教の教えを持つというのは非常に強力な対話になるのではないかという納得感がある。

また、龍谷大学では伝統的に学生が夜な夜な街に繰り出し、段ボールを立ててとにかく人の話を聞くということをしていたそうだ。修行の一種ということなのだろうか。これは自分のような人間もやってみたい。コロナが落ち着いたらやってみようと思った。

仏教というビジネスとお坊さんの危機感

仏教、お寺というものに対する危機感をお坊さんが持たれていることが非常に印象的だった。いま、全国に7万5千の寺があり、そのうち40%が空き寺らしい。破産、借金で首の回らないお寺も大変多いとのこと。

そもそも、お寺というものは個人の所有ではなく、地域にあるコミュニティの場のようなものだったとのこと。江戸時代には役場のような役割や、寺子屋として教育機関としての側面も持っていた。お坊さんというのも職業ではなく、農家や他の職業を持ちながら行うものの場合もあったらしい。それが戦後、職業としてのお坊さんとなり、お寺という個人商店的な「ビジネス」になってしまった。

そしてそれがお葬式のありようを見直される状況になるにいたって、収入の道を経たれて一気に経営の難しさが顕在化していると。経緯も現状もそれぞれ地域特性や個別特性が多すぎて、解決策も一様には導けないように思う。

本質的には、マインドフルネスが日本に逆輸入されているように、仏教の必要性、有用性は21世紀においていよいよ高まっているのだろう。それと現実世界の寺院経営の立ち行かなさとのギャップが大きくなっていることに、問題の大きさがあり、悩みの大きさがあると感じた。

今回お話を伺って思ったのは、やはり日本人にとって仏教は、生き方の根底に自然と重要な影響を与えており、仏教的なるものを捉えなければ、日本人の話を聞くことに関する深い領域に到達できないのでは、ということでもあった。また、完全に素人の目線で恐縮なのだが、仏教の根底にある悟りとはメタ認知に関する事柄であり、聞き上手の根幹を形作る何かと根を共有しているだろうという確信はある。これからも考えを深めていきたい。

神山晃男 株式会社こころみ 代表取締役社長 http://cocolomi.net/