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月影

「子供のころ、月にはウサギが居るって信じてたんだ」
二人連れ立って歩く、部活終わりの帰り道。川沿いのススキを秋風が優しくなでていく。秋の夜空に大きく浮かんだ満月を眺めて、俺はふとそんな話を呟いた。

「なんだい、藪から棒に、君にしてはやけに可愛げがある話じゃないか」

自転車を押して歩く俺の隣で、彼女はこちらを一瞥してそう言った。カラカラと力なく回る自転車の前輪は、不安定な前照灯で暗闇の帰り道を照らしている。

「別にいいだろ、子供の頃の話さ。昔、親父にそう教えられて、ずっと信じてきたんだ」

普段俺がリアリスト寄りの思考のせいだろうか、彼女は何処か面白そうに返事をする。

「ロマンティックな話じゃないか。そういうのは嫌いじゃないよ」

「月にはウサギが居て、餅を付いてるんだって。子供の頃は今日みたいな満月の夜に月を見上げて、ウサギが見えないかと必死に目を凝らしたりしたもんさ」

あの頃は月が大きい夜には決まって、窓から身を乗り出し、ウサギが動く瞬間を逃しまいと目を凝らして夜空を見上げていたものだ。月の明るい夜は、なんだか特別な感じがして、子供ながらに、得も言われぬ高揚感を抱いていたことを思い出す。

「それで、結局ウサギは見つかったのかい?」

彼女も夜空の月を眺めているのだろう、こちらを向かず、隣からそう声が聞こえてきた

「見つかりっこないだろ。あれはクレーターの作った影なんだから」

そうだ、見つかりっこないのだ。小学生ぐらいの頃に月の影がクレーターだと知った途端、俺の夜空への興味はとんと失せてしまった。岩肌が転がった寒々しい月面の写真は、ロマンティックでファンシーな幼い自分の思い描く月面とかけ離れすぎていたのだ。子供心に興味を失わせるには十分すぎる理由だ。

「なんだい、急にリアリストに逆戻りじゃないか」

そう言って彼女はつまらなくなったかのように、道端の小石を蹴った。月明かりの中、蹴られた小石がアスファルトの表面を跳ねていく。

彼女は俺の話を聞いてふと思い出したかのように、話し始めた。

「こんな話は知っているかい?日本じゃあの影を見てウサギに例えるが、海の向こうでは国ごとにまちまちだって話。南アメリカではロバ、アラビアでは吠えるライオンみたいに、馴染みのある生き物に見立てて月を眺めているそうだよ」

同じ影を眺めていても、そこに見出す形は馴染みあるものになるのだろう。海の向こうでも似たようなことをしている人々がいたのは、不思議な気分だ。

「面白い話だな」

俺はそういって返事をする。彼女はその返事に満足したようで、続けて言った。

「東ヨーロッパでは髪の長い美女に見えるんだとさ、丁度私みたいに」

そう言って彼女は自分の顔を指さした、月明かりにその白い肌が浮かび上がる。

「よく言うよ」

そう言って俺と彼女は互いに笑みをこぼした。

改めて、夜空に浮かぶ満月を眺める。晴れ渡った夜空に浮かんだ月が照らす風景は、一枚の絵画みたいに幻想的だ。秋風に揺れるススキと、河面に反射する満月。あまりにも出来過ぎた景色は、どこか滑稽ですら思えてくるレベルだ。

どうにも人は大いなる自然に対して、貧弱な語彙しか持てないらしい。俺の口をついて出た感想は、余りにも陳腐だった。

「月が奇麗だな」

「!……」

隣で急に息をのむ声が聞こえ、彼女の歩みが止まる。

「どうかしたか?」

そう言って俺は彼女のことを振り返った。力なく足元を照らしていた自転車の前照灯は、その動力を失って消え、周囲に暗闇がもたらされる。俺たちのことを照らすのは、満月の月明かりだけだ。

「……キミのことだから、何も察してはいないのだろうけど……。全く、時々君は心臓に悪いな」

俺が何をしたというのだろうか、彼女にしてはヤケに歯切れが悪い。

「何の話だよ。月を見上げた感想で、なんでお前が慌てるんだ」

そう返した俺の返事を聞き、彼女は大きくため息をついた。

「キミという男は……。いや、ここは流儀に従って私も返答すべきか」

そう言って咳ばらいを一つした彼女は、月を背にして俺へと向き直る。

満月の月明かりが、彼女の白い横顔を幻想的に照らす。

「私、死んでもいいわ」

そう言ってほほ笑んだ彼女の顔は、今まで見たどの表情よりも際立って魅力的だった。

夜空に浮かんだ満月だけが、俺たちのことを照らしている。

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