なぜ、「編集者」の道を選択したのか #2
前回の記事では、前職の仕事視点だったので
今回はプライベートの視点で書いていきます
ほとんど県外に出たことがなかった自分
僕はずっと地元の学校に通い、地元の市役所で仕事をしてきたため
県外で生活する、働く、遊ぶといった時間をほとんど過ごしたことがありませんでした
そんな僕に転機が訪れたのは29歳、2016年の春
東京に2年間出向するという機会をいただいたのです
上京した初めての休日
「さて、何をしようか?」と何気なくネット検索をしていると
目を惹く一文が出てきました
『新宿〜甲府間、高速バス代が2,000円』(※今は金額が少し上がっています)
鹿児島に住んでいると県外に行くのだけで時間も費用もかかるため
当時の僕は、隣の宮崎や熊本に行くのだけでもエネルギーがいる、そういう感覚の持ち主でした
でも東京は違いました
隣の県に行くのに2時間くらい、しかも、たった2,000円でいける
今考えると小さな理由ですが、これがきっかけで僕の東京生活は大きく変わったのです
甲府で運命の出会い
甲府に到着すると、すごい人通り
その日は世界最大級の武者行列といわれている信玄公祭りが行われていたのです
どこに行こうにも、街中に人が溢れていて、飲食店も人が多く、途方に暮れる自分
気がついたら、ある路地に迷いこんでいました
はぁーとため息をつくと、目の前には古い建物が…
ガラス越しに見えてきたのはBARで楽しそうに話している人たち、そして笑い声
甲府に来て誰一人とも会話をしていなかった自分に寂しさがあったのか、
楽しそうな雰囲気に誘惑されて、勇気を振り絞り、入り口で中の様子を覗き込んでみました
そんな僕にいち早く気づいてくれたのが、その場を運営されているオーナーさん
話を聞くと、そこはゲストハウス、ちょうどイベント真っ最中で
ゲイのフリーランス女将、山口・萩でゲストハウスを運営している人、長野・諏訪でリサイクルセンターを作ろうとしている人、山形でリペア家具デザインをしている人…etc
僕が今まで仕事やプライベートで会うことのない人たちが集っていたのです
何を話せばいいか、わからなくて緊張していたし
日本酒飲みすぎて酔ってしまい、何を話したのか覚えていません
残っているのは、SNSで連絡先交換をした形跡と二日酔いによる頭痛の症状のみ
そのとき思ったんです
「このままだったら、ただ単にSNSで形上繋がっているだけで終わってしまう。これでは何に起こらないし、変わらない。せっかく東京にいるのだったら、地の利を活かして現地に足を運んでみよう。何もしない後悔よりいいしれない」
旅ではなく、そこにいる誰かに会いに行く日々...
そこから休日を利用して誰かを訪ねて各地回る日々が始まりました
連絡先交換した人には本人に連絡だったり
面識がない人に対してはHPから長文送ってアポを取ったり
人の紹介ではなく
極力自分でやりとりや交渉をして現地に行くように心がけていました
現地で過ごした時間は
リノベーションの作業、イベントの運営・手伝い、一緒にご飯を食べる・お茶をする、サウナに入る、ピクニックする…etc
県外に行く=観光する、という概念しかなかった自分にとって
一つ一つの時間が新鮮で
また誰かに会いたくなる、そこに行きたくなる
その気持ちから、もう一つの故郷ができたような感覚が芽生えました
実際、1回ではなく、2回以上行った場所も多かったです
ただ、現地に行くと今でも思うことがあります
「時間を作ってくれている人たちに対して、自分は何を返していけるのだろうか、その時間をどう活かしていこうか」と
公務員の自分は休日を利用して行っているから何の影響がない
でも、現地の人たちは違う
皆それぞれ自営業という立場で、仕事の内容も違えば、休みやライフスタイルも違います
そんな人たちに時間を割いてもらうって、本当ありがたいことなんです
もしかしたら、僕と会っている時間で、
お金になることが発生していたかもしれない、家族との時間を少しでも過ごせていたかもしれない、体を休めることができていたかもしれない
作ってくれた時間に対する対価を返せない自分に無力さと違和感がありました
人によって捉え方は違うのは勿論だけど
僕はこの時間を「楽しかった、刺激になった」という一時的な感情で終わらせたくなかった…
いつか、ではなく、きっと
この人たちに何らかの形で返したい
全員ではないけれど、仕事をしながら、自分なりにできる返しはやってきました
食べ物を送る、鹿児島来たときに現地案内をする、人の紹介をする、商品を身につけて宣伝する・お土産として持っていく…
それでも胸の中はモヤモヤだらけでした
今までの自分を振り返ってみる
一度自分の頭や心の中を整理しよう
そう思い、とりあえず紙に自分がやってきたことや強みを書いていきました
色々キーワードを出していく中で一番胸にスッときた言葉は、コーディネート
プライベートの活動では、黒子のような役割を担うことが多かった自分
分野は違えど、仕事上でも基本コーディネートの役割を担うことが多かった自分
結果、以下の3点が共通することに
・プライベートでも仕事でも黒子としてコーディネートをやってきたこと
・誰かの内面や物事の過程と向き合い、それを様々な形にしてきたこと
・一人ではなく、多くの人と一つのものを創ってきたこと
仕事とプライベートでやってきたことで共通する3つに当てはまる仕事が僕の中で編集者だったのです
鹿児島でも東京時代でも色々な土地に行ったときのことを思い返すと同じような感覚でした
有名な人に会うでもなく、事例を勉強してくるでもなく
そこで生きる人たちの背中を見て、思いに触れてきたんだって
編集者は”憧れ”ではなく、”手段”としてなったのかもしれない
僕はこの編集者という仕事を通じて
「様々な世界の入り口や手前を見たい、そして、そこで生きる人たちの背中や今まで辿ってきた風景を一緒に見たい」と思っています
そう考えたら、編集者になったのは、自分の思いを実現させるための手段なのかもしれませんね
黒子は中々評価もされないし、スポットが当たらない
僕の考えは地味で派手さやカッコよさもない
一つの案件が終われば、僕は空気のような存在なるのかもしれない
でも、それでもいいと思います
だって、その役割を担う存在も必要なのだから
僕の編集者として道のりは始まったばかり
少しずつ、もがいて
自分だからこそできる編集者の道を歩んでいきたいです
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