見出し画像

【読書日記】3/10 万葉集をお茶の間に。「災害と生きる日本人/中西進・磯田道史」

災害と生きる日本人
  中西進 磯田道史  潮新書

今日は、東京大空襲の日です。
そして、明日は東北大震災の日。

災害と災害の間「災間」に生きる私たちが、万葉集や日本の歴史、先人たちの知恵からどのようなことを学ぶことが出来るのか、あらゆる方面から国文学者の中西進さんと歴史学者の磯田道史さんが語りつくします。
お二人の対談が縦横無尽過ぎてまとめるのが難しいので、今の私が特に惹かれたことそして、そこから考えたことをメモしたいと思います。

1.地震・雷・火事・親父

 地震と雷は天災、そして火事と親父は人災。
 中西さんと磯田さんは、寺田寅彦の著作も引き合いに出しながら、戦争は究極の人災、「権力災害」と位置づけます。
 「権力災害」は、私にとって新たな視点でしたが、戦争までいかなくても、原発事故も含めてあちこちで権力災害って起きているな、と思わせられました。
 そう考えると、地震雷火事親父の「親父」のところ。私が子供の頃には既に「親父」は「昔ほど怖くなくなった」と言われていたので、一種のオチのように思っておりました。しかし、この「親父」を「権力者」と読み替えると一気に恐ろしさが増します。

2.ウソと偽りと真(まこと)

中西さんは「物事にはウソと偽りと本当のことの三段階がある」と言います。
ウソは、アソ(遊)びの部分であって当たっているかもしれないし当たっていないかもしれないという余裕の部分で、悪いことではない。ところが、それが「偽り」と一緒くたにされてしまったのが自然科学主義の弊害といいます。
本当のことだから言っても良いわけではない、ということやYesかNoかの二者択一は息が詰まる、と感じる理由が分かった気がします。

3.利子と信用

地球上には利子に厳しい社会と甘い社会があるということ。キリスト教社会は利子に厳しい社会(ヴェニスの商人のシャイロック然り)であり、日本は甘い社会ということです。その価値観の違いは自然環境や労働観の違い、つまり、厳しい自然環境の中では労働の対価以外の収入は許容されにくい、という背景があるのだとか。
 また、「取引コスト」が低い社会、つまり相互の信用が高い社会は、貸した金が返ってこないリスクが低いため資金調達が容易でありビジネスが発展しやすくなりますが、江戸時代は「取引コスト」が低かった時代なのだそうです。識字率が高い社会であること、均質性を求められ、対面を重んじる民族性などが有利に働いたとのこと。

金融についてだけでなく、ビジネスは相互を信頼することによって成り立ちます。
現在、迷惑動画などが騒がれていますが、店側と客側が相互を信頼することによって成り立ってきたビジネスモデルの基盤を揺るがせてしまいました。
事業においてリスク管理はつきものですが、お客を信頼できなければリスクは高く見積もらざるを得ず、リスク低減のために制約が増え、コストが増え事業者とお客双方に不利益が生じてしまうのは残念なことです。

4.わざわいの多い時代に万葉集を。

「詩心と哲学が国を強くする」という中西さん。「ギリシャには哲人政治、中国には文人政治、日本には歌人政治」があると。そして万葉集はデスクで読むのではなく、お茶の間においておき、日々ぱらぱらとめくってみるのがよいそうです。
なぜなら、「万葉集には多様性と「情」と「悟性」が満ち溢れている」から。
 「雑の歌」から始まる万葉集は、それ以降の勅撰歌集がいかに美しい歌を作るか、を主眼としたのと異なり「様々な人が、様々な時代に、様々な角度から作り上げてきた雑多なところ」が特徴です。
「主人公と準主人公がいて、その他大勢がいる世界観ではない、無名の庶民、名もなき民衆の言葉と普遍性がそこにある。」と。

 わざわいの多い現代に生きることに辛さを感じるこの頃、万葉集の言の葉にふれてみよう、さっそくお茶の間に万葉集を置いてみることにしました。

この記事が参加している募集

#新書が好き

737件