不妊治療を始めたきっかけ

顕微授精で第一子を授かったのは4年前のこと。
そもそも我々夫婦は『大金を払って不妊治療してまで子どもを望む人生』を送るつもりは全くなかった。
同級生だった夫と34歳で結婚、子どもの事は自然の成り行きに任せるつもりでいた。
夫婦二人の生活は楽しかった。
習い事や趣味、旅行など、お金も時間も好きなように使えて、
それなりにストレスの少ない職場でそこそこのお給料をもらい、
自分の時間も、共に過ごす時間も充実して、何の不足もなかった。
子どもができない事も意識下にはあったが、不妊の知識はもとより、そもそもそこまでの興味もなかった我々は、
専門の医療機関を受診するという発想など皆無であった。
子どもができないならできないで、このままの生活が続いていくなら、それはそれで良い人生かもしれない、
とお互いうっすら感じていた。

転機は37歳の秋。
近所の婦人科で子宮がんの定期検診を受け、ベリーショートの女性ドクターに検査を勧められた。
その言い草が、なんとも良かった。
『一度、検査をお受けになっても良いかもしれませんね。
あ、駅のむこうに不妊治療専門クリニックができるみたいですよ。
この前、院長先生が挨拶に来られましたが、
そんなにおっかなそうな人ではなかったですよ』
どちらかというと無愛想なその先生が、そう言って少し頬をゆるませた。
今おもえばまさに鶴のひと声。

そして家から徒歩圏内だし、とその不妊治療専門医の戸を叩き(いくら近いとはいえ、夫も私もなぜあんな気さくに初診行けたのか未だに謎)、
自然妊娠はまぁ無理そうという検査結果を得るわけだが、
ここまでの流れを我々の親友である猫山夫妻に話したところ、夫人から転院を提案される。
彼女は、2歳になるひとり娘を膝に抱いて、きっぱりした口調で言った。
『あのね炎子、その新しいとこはやめた方がいい。
私たち、6年不妊治療したけど、最後は培養士さんの腕だと思う。
私たちが最終的に行ってたのは、〇〇にある□□クリニックってとこだよ』
これまた、鶴のひと声。

こうして素直な我々は、猫山夫妻の通っていたクリニックへ行くことに。
ここが日本の不妊治療のパイオニア的な超有名院で、私は『妊婦製造工場』と呼んでいたのだが(ここでの治療の話はまた別に述べたい)、
幸運なことに、一度の採卵と2度目の胚移植で無事第一子を授かる事ができた。
なので、猫山夫妻の娘とうちの息子はレーベルメイトであると言える。

ご縁が謎に合わさって、私たちは不妊治療に踏み出した。

あの婦人科の先生が、
ものすごい親切な口調で検査を勧めてたら、
あるいは大変愛想が良かったら。
最初のクリニックが、
ひと駅隣りだったら。
多分、はじめの検査に行ってない。

そして猫山夫人に□□クリニックを推されなければ、
もしかしたら子どものいない人生を送っていたかもしれないのはまた別の話。

妊娠12週、たぶんマックス(であってほしい…)のつわりの中で思う。
人生何があるかわからん。

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