つまらない、でいい時もあります
おはようございます。
パセリを買うのにさまよった僕です。
昨日、母にお使いを頼まれて、授業終りにパセリを買いに行きました。
パセリってなんだっけ、と思いながら、スーパーの野菜コーナーを一周しても見つからず、「無いよ」と連絡を入れようかと立ち止まったら、ありました、パセリ。
「ありますね、パセリ」という状態になって何だか面白くなってしまった…(わかる人いるのか?これ)。
パセリって、あのもじゃもじゃのことだったんですね。本当に死角にあって、くしゃくしゃになっていたので不憫でした。
パセリだけを買ったので、手づかみで帰りました。ちゃんと包装されてたし。
つまらない、という流動性
つまらない・退屈は完全に違うものな気がする。
すごくネガティヴな言葉とされる「つまらない」。
僕としては、一種の技法なのではないか、という気がしています。
スベリ芸とか、一発ギャグ、とかと同じように「つまんねー」は笑いの一種なんじゃないだろうか。
もしくは、つまらない、という流しの状態。
「テキトーでいいや」と思えるのはつまらない時で、時間が刻々と過ぎていくのを、集中力を切らすことを良しとする数少ない時間なんじゃないでしょうか。
逆に、なんでもない、ってなんだろ
授業を受けていたり、説明を聞く、というとき、僕は必ず突っ込み所を探しながら聞いています。
そうすると、好き・嫌いのどちらかに大抵のものは仕分けることができて、無関心、というものは存在しなくなる。
「嫌い」っていうのは「ちょっと好き」ってことなんだよ、なんて言う人がいますが、あんなの絶対嘘です。
自己防衛のためにも、対象となるものを見つめ、「これは僕に害を及ぼさないだろうか」「これは歩み寄っても大丈夫そうだな」と、半ば上から目線に評価を下している中で、無関心ということは基本的に起こり得ません。
「あの人(皆さんが客観的に見ている人を想像してください)、どう思う?」という質問に対して「無関心だなー」ということあります?何かしら答えませんか?
「自分にとっては無害だという印象」とか「貴方、あぁいう人好きそうだよね」とか。
何らかの判断を下すわけで。
だから正直「ごめん、ぼーっとしてた」という言葉も信じていません。そこには「貴方の話は聞いていませんでした」という意味しかないんです。
だから本当に、「なんでもない」というのがわからない。
いつものコーナー
うめ。
サラダ
例のパセリが入ったサラダです。
すっぱすっぱ。
紫玉ねぎが旨いので、っていうかスーパーでいつも売っているので、こっちを買っちゃうんですねー…。
からあげ
僕が担当させてもらえない、でおなじみのからあげです。
小さいとバリバリしてうまい。
ジューシーさとかいらないから、煎餅みたいになってカリカリのからあげがおいしいですね。
サムネイルは、母の実家から送られてきた新米です。だいぶ米の粒が小さく、水を吸いまくるので、おいしくするのがちょっと難しい。
素材を美味しくする、という点で料理人ってすごいですね。
ではまた明日
いろいろとストレスのかかることはあれど、うまい事解消してやっていきたいですね。
生きるって、難しいしかなり辛いけど、生きるために生きるのは嫌過ぎるから、楽しむために生きられるように頑張るんです。
がんばろ。
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