仮面浪人の祈りと世界観


○こんにちは、294です。二度目の挨拶ですね。せっかくなので、卒業前に新しく記事を書いてみました。前回の体験記では「仮面浪人の原動力が悔しさだった」ことを指摘するだけだったので、今回は「なぜ悔しかったのか?」を深掘り、モチベーションの源泉を探ることに挑戦しました。悔しさの判断基準の形成過程を振り返ることで、当時の私の価値観や世界観が見えてきた気がします。拙い文章ですが、何か得るものがあれば幸いです。

 

はじめに

 最近、「初めからやり直す以外、どこに戻れば良いのか分からない失敗は悩み続けても仕方ない」と感じることが多くなった。例えば、失言をしてしまったり、忘れ物をしてしまったり等の失敗は、ある一瞬に戻ることが出来れば容易に防げるだろう。そのような失敗に対しては、「あのとき、こうしておけば」といつまでも悔やんでしまう。日常のふとした瞬間にそのことを唐突に思い出し、「二度とするまい」と一人で悶絶する日々を私は過ごしてきた。

では、後悔の多い私の進路選択はどうだろうか。私はどこで間違えたのだろう? そして、どこからやり直せば良いのだろう? 私の体験記(P12〜25)を読んでくれた方は一緒に考えてみて欲しい。しかし、どこに戻ったとしても、たとえ早稲田大学に入学せず仮面浪人をしなかったとしても、根本的な解決には至らないだろう。私の仮面浪人は、気付かぬうちに細かな勘違いや不注意、思慮の浅さ、見通しの無さ、怠惰などを重ねていった結果、引き起こされた。京大不合格を皮切りにこれまでの至らなさをようやく自覚し、進路選択の判断ミスに気づくのだ。そして、これは一瞬の判断ミスではない。数多の判断を重ねていった結果、大失敗にたどり着いたことは、全体としての判断ミスであると評価されるのだ。どこか一つを直したところで今更全てが改善されるとも思わない。ならば、いつまでも過去を悔いるより、この先どうすれば良いかを考えた方が有意義だ。判断を積み重ねた結果、行き詰まった過去の自分と、その失敗を経てどう舵を取っていくかを考える今の自分は違うのだから。一度終わった昔の自分を踏みつけて、今の自分は進んでいく。私はそんな人間だと思う。

 だからこそ、「数学で頭が真っ白になってしまい実力を出し切れなかった自分」は心の底から悔しかった。本番一回限りの受験なんて「一瞬の判断」の極みだ。「もしあのときに戻れるのなら」という感情は私だけではなく、多くの本番で泣いた受験生たちも味わったことだろう。だが、私の不合格は、その場の判断に全力を尽くした結果の敗退とはお世辞にも言えない悲惨なものだった。勝負の舞台にすら立てなかった事実は、私に重くのしかかった。まるで自分の中で時間が止まったかのような、永遠にそこへ囚われてしまうかのような、これまでの人生を台無しにしてしまったかのような。かつて無いほどの悔しさに襲われた。その激しい後悔が、雪辱を晴らすための強い原動力として私を駆り立てた。そして、その執念のおかげで仮面浪人を成し遂げることができた…と受験終了直後は思っていた。

しかし、果たしてこれは健全なモチベーションだったと言えるのか? 「勝てば官軍、負ければ賊軍」のような0-100思考になってしまっていたのではないか? もちろん、仮面浪人の成功自体には非常に満足している。仮面浪人の生活で得たマインドや知見は、確実に今の自分の糧となっている。前の体験記で述べたような、本番で実力を発揮するための工夫や、大学生と両立しながら受験勉強に向き合う工夫が功を奏したことも誇りに思っている。

だが、それらはあくまで「祈り方」に過ぎない。「こうすれば上手くいくはず」という私の祈りは、運良く現実のものとして報われた。だが、もし祈りが叶わなかったら? もし、その工夫が期待外れに終わっていたら? そのときに自分を、そして世界を否定しないために、ある種の世界観を確立しておくことが重要だと今は思う。たとえ失敗しても、一頻り悩んだのちに「世の中こんなときもあるよな」と前を向けるように。運の要素を切り分けて、自己完結できない部分をどう見極めるかは君の世界観次第だ。世界観が出来上がったあとは思う存分祈ってくれ。「もうあとは自分で決めた道を進むだけだ」と。

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*2023年度11月祭で販売した「【令和5年度】京都大学仮面浪人体験記 第5弾」のnote版です。元はPDFファイルだった関係で、一部読み…

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