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雑記#2(廃校と公営団地、二〇〇五年のデジタルカメラ、南下)

 三月ももう半ばになろうとしている。ぼくは廃校の中を歩く。ひとがいないので、校舎の匂いは錆びついている。南下するように過ぎてゆく季節に置いてけぼりにされないように、風景を睨む。十七時まで校庭は開放されているのだが、雨上がりで人はまばらである。いま、雨雲は九州のほうにいるらしい。(大抵、犬を散歩する老人とサッカー少年たちが場所を取り合っているのだが、偶然そこには誰もいなかった)

しかし誰もいない学校というのは珍しい。そこにない侘しさ、中心のない音が連続しているように聞こえる。それは遅刻した男子高校生が(一限はたいてい体育なんだろう)誰もいない教室でみる一つの風景だったはずであるのに。


既に固定されたイメージが持続する。

終わらない時報のサイン波として、

誰もいない部屋の埃っぽい斜陽として、

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 古いデジタルカメラを(ぼくが持っているGR Digitalは二〇〇五年に造られたカメラで、コンパクトカメラに初めて21mm単焦点レンズを乗せた機種の初のデジタル後継機として有名だ。GR Digitalは28mmという当時としては広角な画角を持っている、らしい)
コートのポケットから取り出してファインダーを覗く。

 こういうものをあえて使っているといろいろな発見がある。まず、アイフォンに付いているフィルターというものが当たり前でなく、中庸に、レディメイドに、セッティングされたその色味もない。この機種の画は無骨なほどにシャープである。それは人の視覚よりも鮮明であるのかもしれない。ぼくは風景のすべてから切り離されて、えらく気を遣わなければいけなくなる。

 ふつう、人は風景を見る時になにかしらの個人的なイメージを持つものだ(イマージ、というとウルサイだろうか、人の目はなんでもみるものだ、いや何も見ていないものだ、と古井由吉。)そのとき、風景はぼくと世界の触媒として、視覚として機能することをやめる。

 ときおり一つのイメージにとらわれてしまう。不意にやってきて、ぼくにとってはとても不気味な感触であり。たいていは意識が朦朧としているとき、うたた寝の直後、夜明けのサービスエリアの駐車場。

 中世の絵画に遠近法が見当たらないように、追憶のなかの風景は平坦で彩度が高い、すべからく、再び確かめることのない記憶は妄想へと変わってゆくのだと。(おもえばデッサンというものはそこに在る物体を見つめ続けなければ成立しなかった)

 ヘッダーの写真は団地のほうを向いて撮った。ニュータウンにある団地というものにはほかの集合住宅にはない埃っぽさがある。東京の西側、やがて太平洋へと抜けていく予感。いずれ春の風に流されてしまうその手触りを、SDカードの中にひとつ固定する。

 暫くして、だれもいなかった視界のなかに一人の老人が入った。そのひとが連れているゴールデンレトリバーは鼻を湿らせて、校舎のほう、を気にかけながらくしゃみ、をする。そこにはきっと誰か、の影が視えた。

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(春に向けて、過ぎてゆくすべてのものは息をしている。)

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